天然炭酸紀行タンサニア

かつて関西地方・六甲山地の麓に、「炭酸の街タンサニア」と呼ばれた場所があった。
その周辺地域では令和の今も「天然の炭酸水」が湧き続ける泉があるという。



「暑い夏の日、湧き出したての冷たい天然炭酸水で乾いた喉を爽快に潤す」


そんな体験をしてみたくてこの夏、炭酸ツーリングに繰り出した。







三ツ矢サイダー旧炭酸採取源泉
三ツ矢サイダー旧炭酸採取源泉
ウィルキンソンのタンサニア
天然たんさん水湧出地
天然たんさん水湧出地
天然たんさん水湧出地
タンサン坂
炭酸泉源公園
三ツ矢発祥・平野鉱泉











事前知識:そもそも「炭酸水」って何なのか

よく冷えたシュワシュワの炭酸飲料が大好きだ。
最近は糖分を控えるために無糖炭酸水を愛飲しているけど、のどで感じる強い刺激とその後に来る爽快感は自分にとって夏の楽しみのひとつだ。



そんな炭酸好きの自分が数年前から画策しつつ、先延ばしにしていた旅の計画。
それが今年最初の記事でも予告していた「日本の炭酸水発祥の地」巡りだった。


京都近辺――京都、大阪、兵庫、滋賀、岐阜などにかつて……いや、今も湧き続けている「天然の炭酸水の源泉」を巡ってみようという企画だ。
この夏それがやっと実現に至った。




まずは旅に出る前に「炭酸」について調べてみた。
そもそも炭酸水とは何なのか。
日本では、炭酸水はどのように扱われてきたのか。

この章ではそうした情報についてまとめておく。
興味がない方は次の章まで適宜飛ばしていただきたい。




まず、「シュワシュワ刺激のある湧水」の存在は人類史において古くから「健康に良い水」として知られていたそうだ。

海外で有名なところでは、紀元前の古代ローマで、傷病兵士に飲用させていたという記録が残っている。

日本では古墳時代の終わり、飛鳥時代から奈良時代の境目で「醴泉れいせん」という水が繰り返し登場する。
たとえば693年、女帝として有名な持統天皇のときに近江国で「醴泉れいせん」によって多くの人が病を治しているという記録があるのだが、この醴泉こそが炭酸水のことだと言われている。



しづちゃんが菊水泉で話していたあの話




風雨来記4作中でも登場した岐阜の「養老の滝」及び「菊水泉」も、「醴泉れいせん」として歴史の中に現れる。


先述の持統天皇から三代あと、同じく女帝の元正天皇(持統天皇の孫にあたる)がこの水をいたく気に入って、年号を「養老」にあらためた他、二度も現地へ行幸(天皇が旅すること)している。
同じ場所、それも京都から離れた畿外へ繰り返し行幸するというのはとても珍しい。





元正天皇は当時(最初に訪れたとき)38歳。
彼女は、「非常に慈悲深い上に聡明で知識が広く、話すことはいつも理にかなっている」とその知性を特筆されるほど優秀で理知的な天皇だった。(「華夏戴せ佇り」とも書かれている。現代語訳すれば「すごく華やか!」)

その性格は797年完成の続日本記(しょくにほんぎ)に記された彼女の言葉の端々からも読み取れる。


元正天皇はこう仰有った。

「わたしは今年、美濃国へ訪れたおりに多度山(現在の養老)というところで美泉に出会った。
 泉に手を浸し顔を洗うと肌がつるつるになり、入浴すれば体の痛みもなくなった。
 わたし個人の感想ではあるが、確かな効果があったのだ。

 また、わたしの体験した話ではなく付き人が地元の人から集めた話だが、この水を飲み続ければ白髪が黒くなり、禿げた頭にも髪が生え、目も良くなり、あらゆる病気も治るのだという。

 中国の古い書物に『醴泉は、美泉なり。以て老を養うべし』とある。
 わたし自身は平凡でつまらない人間だけれども、そんなわたしの代においてこのような美 泉が世に現れるということは天からの祝福であり、大変めでたい賜りものなので天に感謝し、年号を『養老』にあらためよう」


 続日本紀

菊水泉






人は自分の感動の体験談をつい主語を全体化して語りがちなものだが、彼女は冷静にはっきりと一次情報と三次情報を分けて語っている。


元正天皇の控えめで謙虚な言動には理由がある。
元々彼女は天皇になるはずではなかったが、兄である文武天皇が25歳の若さでこの世を去り、その息子である首皇子(元正天皇からすれば甥)がまだ幼かったため、母(元明天皇)と自分(元正天皇)が立て続けに天皇となることでが即位できる年齢になるまでの期間を「繋いでいた」のだ。

この母子の代で平城京に遷都が実行され、風土記編纂の令も出され、和同開珎が造られ、古事記と日本書紀も完成させたりと現在まで知られる事績が非常に多い。




元正天皇を取り巻く環境は当時かなり複雑な状況で、様々な政治的配慮、バランス感覚が必要だった。
自分を前に出しすぎたり、カリスマを発揮しすぎてもいけないし、かといって隙を見せれば政敵につけこまれて天皇の座を奪われてしまう。



多度山(後の養老)へ2度も行幸したことも、水を気に入ったことは事実であろうが、それを政治的に大きく取り扱ったのは決して個人的な思惑ではなく。


自分自身を「平凡でつまらない(なぜなら真にこの座につくべきは自分の甥の首皇子だから)」と謙遜しつつも古代の書物を引用することで、「醴泉」が出現したということは「そんな自分の治世でも天が祝福してくれている証である」と公的に示す目的があったわけだ。




この「養老」改元に際して、恩赦として罪人の放免の他、「80歳以上の老人には特別な位を授け、100歳以上の人には布や食べ物などの記念品を与える」という礼が出された。

また、「この機会に親孝行の子供や孫、家庭を大切にする夫や妻たち道徳的に立派な人たちを表彰しよう」と言って里人への税の免除なども行われたと記録されている。


養老7年に施行された三世一身法(自分が開墾した土地は自分、子、孫の代まで自分のものとして良いという法律)も、そうした「養老」意識の流れの中にある。

そして養老8年、無事甥である首皇子に皇位を譲ったことで、「聖武天皇」が誕生。
上皇となった彼女は、その後も彼を「我子」と呼んで晩年までサポートし続けた。




養老の「醴泉れいせん」――「炭酸水」が無かったら、そんな日本の歴史の流れが今とは大きく違ったものになっていた、、、かもしれない。











余談になるが、元正天皇の醴泉への行幸を現地サポートしていたのは、水取部を担っていた美濃の豪族ムゲツ氏だった。
彼らは古代美濃を開拓し、数百年以上治めてきた一族の末裔。


風雨来記4に登場した「弥勒寺官衙遺跡」はそんな彼らの本拠地の跡だった。
ムゲツ氏はその後も美濃の水を天皇へ献上し続けているが、平安時代以降いつの間にか歴史の中に消えてしまって今は地名だけにその名を留めている。


現代の岐阜県の武儀(ムギ)・武芸(ムゲ)などの地名がそれで、郡上という地名も「武儀郡の上(北)にある土地」というのが由来だ。







炭酸の話に戻ろう。
元正天皇が「お肌つるつるになって身体の不調も無くなった!(個人の感想です)」と大慶びした養老の水。


現代においても菊水泉の成分を調べると、豊富なミネラルと共に微量の炭酸が含まれている。
養老山地周辺が石灰岩の地質で、そこから染みだした二酸化炭素が地下水に溶け込んでいるためだ。

炭酸は普通の水と比べて抗菌・殺菌作用があり微生物やウイルスが繁殖しにくいため、当時の人たちも「ここの水を使っていると体の調子が良い」という経験則から「病に効く水」として話題になったのかもしれない。



また、炭酸泉は冷たい水であってもしばらく浸かっていると身体がぽかぽかと熱くなってくる。
これは水中にとけ込んだ二酸化炭素が皮膚に染みこんで血管を拡張させるからだそうだが、科学的知識がなければ「冷たいのに温かい」それはとても不思議で神秘的な体験に感じられたことだろう。


白髪が黒くなるとかハゲた頭に毛が生えるという当時の噂話も、令和の現代ネットを「炭酸 育毛効果」とか「炭酸 薄毛に効く」とか検索すればだいたい同じような話題で溢れているのが人の悩みの普遍性を感じられて興味深い。





養老の滝には他にも「息子が父のために汲んで帰った水が酒に変わっていた」という後世に付け加えられた伝承があるが、こちらは炭酸の刺激的な口当たりを「酒」に喩えた、あるいは当時の「酒」自体がアルコール度数が低い微発泡飲料だったため酒に近い味だったことがベースにあるんじゃないだろうか。













――ここまでは「特別な存在」としての炭酸水の話。

炭酸水を「日常的に積極的に飲用する文化」が芽生えたのはずっと最近、18世紀後半~19世紀のことになる。


CO2の発見が1754年。
間もなく、「炭酸ガス」という言葉が生まれ、この炭酸ガスを水に溶け込まし、瓶にボトリングする技術の発明が1772年とつづく。


C=炭素がひとつ、O=酸素がふたつ結びついた炭酸ガス――これを「二酸化炭素」という。
そしてこの二酸化炭素がとけこんだ水を、日本では「炭酸水」と呼ぶようになった。



折しも産業革命による「公害」で健康被害が発生する中、欧米の富裕層を中心に「健康意識」が高まり、当時すでに健康に良いとされていた「炭酸水」を飲むことが一大トレンドになった。

特に、公害への反発による自然志向から、人工炭酸水よりも「天然炭酸水<ナチュラルミネラルウォーター>」が多く求められたそうだ。




それに伴って、世界各地で自然の炭酸泉からボトリングして販売する業者が急増。
開国したばかりの明治時代日本も例外ではなく、複数の日本人・外国人が日本各地で炭酸鉱泉を発見し、炭酸水をボトリングして世界へと輸出する事業が流行するに至った。


特に大阪・兵庫エリアの六甲山周辺は「有馬-高槻断層帯」という「当時の世界基準で最高レベル」と評されたほど良質の自然炭酸水が集中する地層があったため、現代まで続く全国的有名ブランドが「ふたつ」誕生した。

そのブランドこそが、



「三ツ矢サイダー」「ウィルキンソン タンサン」だ。




現在ではどちらもアサヒ飲料のブランドとなっている









どちらも、現代でこそ真水に後から炭酸を付加する製法をとっているが、元々は自然の湧き水をそのままボトリングした「ナチュラルミネラルウォーター」からスタートした――――ということを数年前に知って強い興味を持ったことが、この旅を思い立ったきっかけだった。




天然の炭酸水。
そんなものがつい百年ちょっと前、全国どころか世界に出荷されて愛飲されていたという。


今も湧いているなら、見てみたい。
そして可能なら、飲んでその味を感じてみたい。


そんな想いが、この旅へ背中を押す原動力となった。
そしてそれは、そのあとの「島根旅」にまで続くこの夏の長い一続きの旅となったのだ。















京都から大阪を抜けて兵庫へ~天王峠と女郎ヶ淵

真夏のある日、夜明けと共に京都を出発。
国道9号線を西へ進み、最初の目的地「三ツ矢サイダー炭酸ガス旧採取地」へ向かった。




元々の三ツ矢サイダーは先述したように天然の炭酸湧水をボトリングしていたが、現在の三ツ矢サイダーは工場生産になり、水道水を濾過した水に炭酸を付加しているそうだ。

一時期は、「A地点の湧水」で採取した鉱水に「B地点の湧水」で採取した炭酸ガスをプラスするという製法で炭酸水を生産していたこともあったという。


この「B地点」にあたるのが、「三ツ矢サイダー炭酸ガス旧採取地」だ。
山陰と山陽のちょうど真ん中、日本海からも瀬戸内海からも遠く離れた文字通りの山奥にある。













目的地まであと五キロほどのところで通りがかったトンネルのそばに気になるものを見つけて、道ばたの駐車スペースに休憩がてらバイクを停めた。


ここはちょうど「大阪」「京都」「兵庫」の境界。
国道173号線はけっこうな山間部にも関わらず交通量が多く、ひっきりなしに車が行き交っていた。







国道の脇に、バリケードで通行止めとなった古いアスファルト道路が伸びていて、その先に大きな碑が見えていた。
茂みに覆われるようにしてひっそりと、でも確かな存在感を持ってそこにたたずんでいる。





地図をみるとこのあたりは「天王」という地域(大阪府豊能郡能勢町天王)で、ここは「天王峠」という名称のようだ。
周辺の標高は海抜500メートルほど。

18世紀以前の地図には「脚木摺峠(すねこすり峠)」と記載されていたという。
すねをこするほど険しい道、という意味だろうか。

摂津国(現在の大阪・兵庫)と丹波国(現在の京都・兵庫)となるこの峠は、古くから多くの商人たちが往き来したそうだ。


石碑の奥に続く道は、目の前の天王トンネルが開通したことでお役御免となった「旧国道」の跡らしい。
車は通れないようにバリケードがしてあるが、自転車なら今も通行可能ではあるようでネットにはここを踏破した自転車乗りたちの口コミ情報が散見された。


歩いて少し先までのぞいてみることにする。




丹州街道古民謡の碑。昔の峠越えの苦労をあらわした歌が刻まれている





道路がところどころ崩落・崩壊している上、無事な道路上にも岩石や木の枝・幹が散らばっていた。
崖崩れから染みだした水が、道路の上を川となって横断し、反対側の崖へ小さな滝となって流れていく。



アスファルト道路が水の通り道(というか川)になっている。





面白いことに、ここがこうなったのは昨日今日の話ではなく、ネット上でこの「すねこすり峠」について検索してみると、10年以上前の記事にはもうすでに今と変わらない様子の写真が掲載されていた。

誰かが撮った12年前の写真と現在を見比べて、その「変わって無さ」にびっくりする。
まるで時が止まったままのようだ。


正直、意外に感じた。
こういう山奥の道路って、人の手が入らなくなったらあっという間に形を失っていくような印象を持っていたけど、そう単純なものではないらしい。


朝八時前。
頭上――今立っている旧道より高い位置にある現在の国道を、車がびゅんびゅん行き交っている音が響いている。

生きた道路と、役割を終えて時間がとまったみたいなこの旧道。

動と静。

そのコントラストが寂しさとも達観とも違う、面白いような切ないような、自分でも説明の付かない不思議な感傷を抱かせた。















再びトンネル前に戻ってきた。
地図によればこのトンネルの上に「天王稲荷」というお社があるらしい。
そちらにも足を伸ばしてみよう。



「天王」は、ここに限らず日本各地に残されている地名だ。
そこに「ある神様」が祀られている(いた)ことに由来する。






一般的に「天王山」といえば、京都と大阪の境にある「山崎の天王山」で行われた(実際には戦場は山ではなく、麓の沼地だったらしい)合戦を指すことが多い。

本能寺で織田信長を討った明智光秀と、羽柴秀吉との天下分け目の決戦が、後世で「天王山」と通称されるようになり、そこから転じて「天王山=ものごとの勝敗を決める正念場や運命の分かれ目のこと」という語彙が生まれ、今に至っているそうだ。





元々「天王」とは、仏教と神道の習合ミックスによって生まれた日本オリジナル神様「牛頭天王」の略称で、現在の兵庫県姫路市がルーツという。

この神様は奈良時代以降に登場・信仰されるようになった神様で、疫病除けの御利益があるとされたことから疫病大流行中の平安京に求められ、勧請された。

これが現在の祇園祭のはじまり。
祇園という言葉も「牛頭天王は祇園精舎の守護神である」という設定にちなんだものだ。



都市化=人口集中=伝染病のリスク拡大


現代にも通じる、そんな人類文明の問題に対応した神様。
それが牛頭天王で、そうした性格から「ここで病の連鎖を断ちたい」という場所によく祀られるようになった。

先述の天王山も、平安時代までは「山崎山」という名前だったのが、中世以降に牛頭天王を祀る山崎天王社が置かれたことで天王山と呼ばれるようになった経緯がある。



山崎の天王山は大阪と京都の県境。
ここの天王山も、大阪・兵庫・京都の県境。

こんなふうに、関所や峠など国境に「天王」の地名が多いのは、外からやってくる疫病を神の力で食い止めてもらうためだろう。
現代の検疫機関のような役割があったわけだ。










トンネル横、じっとりと緑に埋もれた階段を見つけた。
天王稲荷への参拝路かもしれない。

足元もやたら湿っていて、踏み居ると何匹ものカエルがあっちへこっちへぴょんぴょん跳ねた。
カエルが多いということは、カエルを狙うマムシに注意しなくてはならない。

足下を見ながら慎重に進んだ。







かなりきつい傾斜に、板を斜面に打ち込んだ簡易の階段がずっと上の方まで続いていた。
段差がしっかりついていて転がり落ちる心配がないのは幸いだ。






朝イチということもあって元気は十分、どんどん山を駆け上がっていく。






山のてっぺんには祠があった。
手を合わせてここまで無事来られたことへの感謝を伝え、ほっと一息をいれる。


天王稲荷ということは稲荷神を祀っているんだろうけど、「天王」の方はまた別のところに祀られているのかな?
それとも今はここで一緒に祀られているんだろうか。


稲荷社は祭神としてウカノミタマを祀っていることが多い。
ウカノミタマはスサノオの子供。
牛頭天王とスサノオは平安時代以降同一視されがちでもある。
祇園信仰と稲荷信仰、どちらも神仏習合の性格を持つことを考えると、天王と稲荷というのは割と自然な組み合わせかもしれない。














この天王山自体が重要な水源となっているようで、周囲からは至るところに水が染みだしている。
天王稲荷への入り口を緑が覆っているのも、その豊富な水による湿気のせいだ。








ここから道路を数分下ったところには、女郎ヶ淵という小さな渓谷があって、岩場からはとても冷たく綺麗な水が流れだしていた。




とても冷たく綺麗だが、湧き出しているところから水汲み場までは距離があり、沢水に近い。飲用するには煮沸が必要だろう。
基本的にとても綺麗な淵だが、川岸にはところどころ古い粗大ゴミが転がっていた。




この女郎ヶ淵には大蛇伝説があるそうだ。
とても綺麗な淵だけど、ところどころに大きなゴミが転がっている。
都市部から近すぎず遠すぎずの山奥ということで、違法投棄する者が少なくないんだろう。


ひとまず、湧水を水筒に汲んだ。
持ち帰ってお茶を飲むのに使おう。


目的地の「三ツ矢サイダー炭酸ガス旧採取地」はもうすぐそこだ。














「三ツ矢サイダー炭酸ガス旧採取地」





天王峠から山を少し下ったところ。
女郎ヶ淵からは10分とかからず、「三ツ矢サイダー炭酸ガス旧採取地」に到着した。


山間の谷間、ひなびた小さな温泉街の奥にぽつんとある開けた公園。
ぱっと見キャンプ場のようにも見えてしまう川辺の草地が、目的の場所だった。

真夏というのに鮮やかな紅葉。
その傍らに見える小屋がおそらく源泉だろう。

バイクを停めて早速探索を始めた。



とても静か、というのが第一印象だった。
無音というのではない。
川のせせらぎや野鳥、セミの声が響いている。

でも、とても静かに感じられた。


「三ツ矢サイダーと源泉」経緯が刻まれた碑が建っていた。



目の前にある、小屋?が目的の「採取地」だろうか。
小屋だけでなくその周りにも水が染みだしている。

見ようによっては、小さな池の真ん中に小屋が建っているような感じだ。



小屋の周囲で湧き出している池。非常に澄んだ綺麗な水だった。



小屋の周りをぐるっと回ってみる。
歩くたび、足下で何匹ものカエルが飛び跳ねて水の中に潜っていく。


松尾芭蕉の句にこんなのあったな。
古池や蛙飛びこむ水の音、だったか。






面白いことに、小屋の前には蛇口とシンクが置かれていて、水が流れ続けており、木の板に「止めないで下さい 止めないで下さい」と注意書きがあった。
普通なら「使ったあとは必ず止めて下さい」と書かれているところだが、ここでは逆なのだ。

おそらくだが、こうやって湧水を排出することで、先ほどの「池」があれ以上広がらないように調整しているんじゃないだろうか。
この水を止めると、小屋の周りはどんどん水浸しになって「池」が広がってしまうんだろう。





小屋の中は見学できるのかな。
入り口のドアに近づいてみる。

特に立ち入り禁止などの注意書きはなく、カギもかかっていないようだ。
ドアを開けてみた。

すると、上から何かがポトっと落ちてきた。
そう、まさにポトッという擬音がぴったりな感じの落ち方だった。

軽くて柔らかい何か。

落ちてきたそれ・・は途中でドアノブにしがみついて、ゆっくりとよじのぼり、そこに身を落ち着けた。







カエルだった。
目の前に人間がいるのに危機感が全く無い。
あるいは、変温動物なので、朝早く気温が低いせいでまだ寝ぼけているのか。


逃げないのをいいことによくよく観察すると、普段見るカエルとはちょっと姿が違う気がする。
アマガエルに似ているけどふた回りくらい大きいし、身体も少し平べったい。


ネットで調べてみる。
これは……きっとモリアオガエルだろう。

似たカエルにシュレーゲルアオガエルという種がいるけど、目の色の特徴からおそらくモリアオガエルに見える。

子供の頃からテレビの動物番組で木の枝にアワに包まれたたまごを産むモリアオガエルは、いつか見てみたい幻の存在だった。


思わぬところでそんなモリアオガエルと人生初遭遇してしまった。
序盤から幸先がいい。今回も楽しい旅になりそうだ。





一向に逃げる気配のないカエルは置いておいて、炭酸水の泉源に目を移す。






炭酸だけじゃなく鉄分も含んでいるらしく、施設に赤茶けた色合いが目立つ。
水自体は無色透明で、一口含んでみると無味無臭だった。
炭酸も感じない。

ただ、ぽこぽことアワが湧き上がり続けているので、ある程度一気に飲めば炭酸を感じることができるんだろう。
……さすがに落ち葉やアメンボの浮いているこの水をこのままがぶ飲みする気は起きなかったので、推測だけど。

後から思うと飲まないにしても口に含むくらいはしてみてもよかったかもしれない。




説明によると三ツ矢社はここで炭酸水に使う「炭酸ガス」を集めていたということだけど、この湧き方はずいぶん大人しい。
往事はもっとボコボコと炭酸ガスが湧きまくっていたのか。

ガスといえば……さっきからガスが抜けるような「プシュー」っという音がどこかから聞こえるような気がする。













音の出所を探りつつ、周囲を散策してみた。
小屋の奥では川が流れている。
透明度の高い綺麗な水だ。

ふと、そんな流れの対岸に異質な「色」を見つけた。






支流の川底がところどころさっきの小屋の施設と同じ、赤茶けた錆色に染まっていた。
これはつまり、鉄分を含む炭酸泉があちこちから湧き出しているということか。






音の源を見つけた。

温泉宿らしき建物の裏側、ひときわ赤茶けた岩壁。
その一部から、水蒸気が噴き出しているのが見える。
間欠泉というやつか。

ぷシューッと息を吐いたかと思えば一旦停まり、また噴き出す。






見た目とは裏腹に、噴出した水はひんやりと冷たい。
15度以下だろう。
いわゆる「地下水」の冷たさそのもの。

勢いよく噴き出しているのは蒸気ではなく、炭酸ガスの圧力によるものだろう。


これこそが、探し求めた「活きた炭酸泉」だったのだ。










このあたりは、炭酸水を源泉とした温泉地「籠坊温泉郷」。
800年の歴史があり、古くは平家の落ち武者伝説に繋がるそうだ。



炭酸泉は意外と、日本の色々なところで湧いているそうだ。
でも、今回の自分のようにきっかけがあって調べてみるまで身近なところで炭酸水が湧いていることに気づかない。

この理由のひとつとして、たいていの炭酸泉は加温して「温泉」として活用されているからだと思う。

炭酸温泉は、温泉全体の0.5%ほどだというからこれだけを聞くとレア泉質に感じる。
だが日本の温泉源泉数は約3万。
その0.5%と考えれば少なく見積もっても100箇所以上の炭酸温泉が存在することになる。

温泉の定義は我々一般の人間の認識とは少し違って、必ずしも「天然で湧き出した熱い泉」を指さない。
25度以上であれば温泉、それ以下でも特定の物質を一定以上含んでいれば「天然温泉」と言える。
正しい定義は「地中からゆう出する温水、鉱水及び水蒸気その他のガス(炭化水素系天然ガスを除く)で、温度は摂氏25度以上、物質は溶存物質、遊離炭酸等19の物質のいずれか一つを一定量以上含むもの)」



理想的な温泉は「100%源泉掛け流し」というやつで、湧き出した地下水「源泉」が「偶然」人間にとって入浴に快適な温度だった場合に実現するが、そんな偶然に当たる確率は低い。


熱すぎる場合は水道水や沢水などを加水したり、源泉から距離が離れたところに入浴施設を作ることで温度を調節したりする。
低すぎる場合は家の風呂と同じように、機械によって加熱して利用する温泉地も多い。


この籠坊温泉郷もそのひとつというわけだ。

あとから知ったことだが、温泉宿の他に野湯もあるらしい。
また、温泉目当てにあらためて訪れてみても良いかもしれない。

条件次第で、かなりの強炭酸が楽しめるのだとか。















これを書いていて、「そういえば以前日本一周で九州を巡ったとき、大分県で「ラムネ温泉」という温泉に入ったな」と思い出して写真を掘り起こしてみた。



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無料の混浴野湯 カニの湯(ガニ湯) OLYMPUS DIGITAL CAMERA
入浴中の肌の様子。カニのようにアワだらけになる OLYMPUS DIGITAL CAMERA
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長湯温泉。
日本一(世界でも有数)の炭酸濃度を誇る炭酸温泉だったと記憶している。

入浴中は身体中の表面が炭酸によってあぶくだらけになったのが面白かった。
そのアワだらけの様子から、昔は「カニの湯」と呼ばれていたそうだ。


飲泉場の写真があるということは、当時の自分は炭酸泉を飲んだんだろう。
でもまったく記憶にない。
ここの炭酸泉は源泉掛け流し、天然で40度以上の快温のため「炭酸水」という意識は全く無く、ただ「温泉」として認識していたんだと思う。











閑話休題。
次の目的地は「タンサニア」にある「ウィルキンソン記念館」だ。









「くろまんぷ」と「多田銀銅山」



次なる炭酸泉へ向かう途中、いくつか面白いスポットに立ち寄ったので触れておこう。
まずは「くろまんぷ」。
「現役最古の石造りトンネル」なのだとか。

「まんぷ」は、鉱山における坑道を指す「間歩(まぶ)」が語源で、転じてトンネルを表す言葉として使われたという説が有力なようだ。
つまり「くろまんぷ」=「くらいトンネル」。



面白い地名なので興味を引かれて寄り道。
くろまんぷは通称で正式には林田隧道と言い、天王峠と同じく摂津国と丹波国の交通の要衝だったそうだ。

現在は幹線道路から外れた住宅街の裏山にあって、あまり利用されないトンネルとなっている。
自分もGoogleマップでたまたま見かけて面白そうだなと思い探したものの、辿り着くのに結構迷ってしまった。







良い雰囲気のトンネルだ。

山の中にありつつも住宅街が近く生活音が聞こえる安心感。
古い石組を残しつつも現代的なコンクリートも併用されたしっかりとした造り。
地面のアスファルトにもひび割れひとつない、とても綺麗な状態。

風がよく通り抜けるので落ち葉こそ貯まっているものの、じめじめ感も不気味さも全くなかった。



トンネルの入り口横の壁をみると、最近「土木遺産」にも指定されたようだ。
こういう認定を受けることで付加価値が付いて、興味を持って訪れる人もいることだろう。







今回自分が滞在している間、通ったのはママチャリに乗った地元の男子学生一人だけ。
トンネル自体は綺麗だけど、ここに来るまでの道は枝や小石などが多く、うっすらと苔むしてもいた。

他に便利な道が出来た現在、わざわざ山を登り降りしてこの「くろまんぷ暗いトンネル」を日常的に通る人はもうほとんどいないんだろう。

そのおかげと言っていいのか、ほぼ独り占め状態でトンネルの風景を満喫できた。











そこからさらに進むと「道の駅いながわ」が見えてきたので休憩することに。






トイレを済ませてふと観光情報コーナーを覗くと、この付近にあるという「多田銀銅山」が大々的にPRされていた。
どうやら、間歩(坑道)の中に入ることもできるらしい。


銀山と言えば以前島根で訪れた「石見銀山」の名前が思い浮かぶ。
「間歩」の意味などはそこで知った知識だ。


掲示されているパネル写真には、間歩の中をヘルメットをかぶった見学者が楽しそうに探検している様子がいくつも並んでいた。

なにやら面白そうな雰囲気。

朝早く出たおかげでまだ正午前。
ここにも寄り道してみることにした。


入り口にあるビジターセンター「悠久の館」で、間歩(坑道)探索用にヘルメットを借りる。







ビジターセンター前に張られている看板にはこの鉱山の概要が書かれていた。


ここまでの旅で見てきたスポットと同じく、この銀銅山もまた摂津国と丹波国――現在の兵庫・大阪・京都、そして山陽と山陰を結ぶ道上にある。


伝承では、鉱山のはじまりは銅山だったといい、東大寺の大仏造営にあたってこの地の銅を提供したと伝えられている。
その後豊臣秀吉が関わる開発計画によって良質な銀の鉱脈が発見。
以降は銀山として隆盛を誇り、都市圏から近いという強みもあって江戸時代当時の最先端の技術が投入された。

その後は産出量が減り続けたものの、昭和の途中まで銀山としての操業は続いていたのだそうだ。








歩き始めてすぐ、面白いものを見つけた。







やたらモダンな建物。
これは、明治時代の精錬所(鉱石から不純物をとりのぞき、銀や銅などの鉱物を抽出する作業所)の跡らしいが、ここで思わぬ「名前」と再開した。

堀氏。

この精錬所を建てたのは、島根県津和野の鉱山実業家「掘氏」だという。
明治28年に「多田鉱山」として開発権利を買い、採掘を始めたものの、明治40年頃から起こった銀と銅の暴落で休業に追い込まれたという。



「掘氏」の名は昨年「2024年島根旅」でとても印象的だった。
詳しくは以下の記事のまるで映画のワンシーン  ――旧堀氏庭園を参照いただきたい。






掘氏は、津和野をはじめ、島根県各地の鉱山に関わっていた実業家だ。
昨年の旅では偶然の積み重ねによってアンテナに引っかかった(あるいは、道中に訪れたスポットによって興味が広がった)結果、島根の西端でそんな堀氏の旧宅と日本庭園に行き着いた。


姓を「掘氏」というくらいなので、古くから鉱山に関わる一族だったんだろう。
少なくとも江戸時代にはすでに幕府から採掘のお墨付きをもらっている記録がある。

彼らの本拠地では日本最古の石(2019年に発見された25億年前の花こう片麻岩)が発見されているし、立派な日本庭園のあるお屋敷の裏口を開けると山肌にいくつも間歩が掘られているのも印象的だった。


そんな堀氏の名前をなんとなくたまたま寄ったこの場所で聞くことになるとは思わなかった。
以前の旅も、過去になったわけではなく今この瞬間も一続きの旅としてつづいている――そう感じられて嬉しい。










とはいえ、この銀山が隆盛を極めたのはもっと古く、戦国時代から江戸時代初期のこと。
その時代の鉱山跡地はさらにだいぶ山の奥にあるそうだ。

この先は自家用車の通行は禁止ということなので、ビジターセンターの駐車場にバイクを置いて、歩いて進んでいく。








歩き始めてすぐ右手には、金山彦神社。
金山彦はその名前通り鉱山の守護神だ。

古事記では、火の神カグツチを産んだイザナミが火傷で苦しんで嘔吐したところから生まれた神とされ、同時に生まれた女神・金山姫と対を成す。


この神様の総本社は岐阜県にある。
関ヶ原のとなりの垂井町にある南宮大社がそれだ。

南宮大社については2024年の岐阜の旅でも少し触れた。
付近には古代からの鉱山「ギフのピラミッド」こと金生山や、製鉄集団の象徴という説のあるヤマタノオロチを祀る伊富岐神社などがあって神話とのつながりを感じられる場所だった。






よく見ると、神社の境内にも間歩まぶ(鉱脈を掘った跡)がある。






鉱山を司る神様の境内にある山を掘るのは、どういう判断になるんだろうか。

「神様からの贈り物をありがたく享受した」と捉えらたのかな。
どちらにせよ、この間歩はそれほど大規模な鉱脈ではなかったようで、あまり深くは掘られていないようだ。



謎の像。何が彫られているんだろう。仏像?スカートをはいた女性?




神社のさらに奥へ進むと「青木間歩」の案内板が見えてきた。
この多田銀銅山遺跡の観光において一番の目玉と呼べるのが「青木間歩」だそうだ。


間歩(まぶ)は「鉱山などにおける坑道」を指す言葉で、そこから派生した言葉として「トンネル」を指す「まんぷ」や「まんぽ」があるというのはすでに書いたが、他にも「マブダチ」の「マブ」もこの「間歩」から生まれたという。

間歩は、そこに鉱脈があってそれを掘り進めた跡。
つまり、本物の金脈や銀脈に通じるものである。
そこから「本物」を指す言葉として使われるようになっていったようだ。






間歩の中に入るとぐっと気温が下がる。
外は35度近い暑さだが、ここは18度ほど。肌寒いくらいだ。

静かだ。
ぴちゃん、という水のしずくが落ちる音。

耳をすませばはるか遠いところでミンミンゼミの声が聞こえる。


掘削された壁面は結構尖っている。ヘルメット必須。
気温は20度以下。湿度が高いこともあって真夏にも関わらず肌寒いくらいだ
天井をみると岩から水が少しずつ少しずつ染みだしている。随分密度の低い地質なのかな?





それほど深い間歩ではなく5分程度で往復できる規模だけど、雰囲気はたっぷりだ。
外界とは別世界への探検気分を気軽に感じられるワクワクスポットだった。


にも関わらず、自分が訪れている間誰も来なかった。
人が多いのも苦手だけど、あまりに少なすぎるのももったいなく思う。

と思っていたら戻り際に、息子さんを連れたお父さんがすれ違った。
きっと良い思い出になることだろう。







余談だが、神戸新聞の取材記事によると未公開の坑道の奥にはこういう景色が広がっているそうだ。



頭新聞NEXT https://www.kobe-np.co.jp/
神戸新聞NEXT https://www.kobe-np.co.jp/
神戸新聞NEXT https://www.kobe-np.co.jp/












青木間歩から出て、さらに山中へと向かう。
この先にもいくつかの間歩と、「露頭掘り」の跡があるそうだ。
露頭掘りというのは文字通り、坑道を掘るのではなく地面に露出した鉱脈を削り取る手法のこと。







10分ほど進むと遠目からでも「それ」と分かる山肌が見えてきた。
「多田銀銅山の大露頭」だ。


大露頭





本来は周りの山々と同じように緑で覆われていただろう小山が丸裸になってがっつり削られている。
風化や地滑りなどの自然現象ともまた違う、人工的な強烈な爪痕。


傾斜が急な上、削れた砂が堆積して滑りやすそうだ。
ところどころ突き出ている岩をたどれば山の上まで登れそうだが、現在は立ち入り禁止となっている。
あの上からどんな景色が見えるのか気になるけど、登るのは我慢しよう。



採石の跡











露頭掘りとは別に、このあたりで地下鉱山を開いて管理していた事務所の跡地も見える。

昭和41年設置、48年閉鎖。
割と最近に稼働していたことと、たった7年間で閉鎖したこと、ダブルで驚きだ。





地下120~200メートルで良質な鉱脈が見つかったため、一時期は盛んに採掘されたようだ。
案内板に従って周囲を散策すると、雑草や笹やぶに埋もれて年季の入った看板を見つけた。





ここから地下120メートルへ降りる採掘エレベーターがあったようだ。
今は周囲にはただ空き地がいくつか残るだけ。

こんなに短時間で廃れたのは、鉱脈自体が小さかったこともあるだろうし、時代の流れで海外から輸入するのが主流になったことも大きいんだろう。


多田鉱山に限らず、昭和後期から平成にかけて、全国各地のあらゆる鉱山が閉山している。
風雨来記4でもいくつかの廃鉱山が登場した。


神岡鉱山。閉山後はレールマウンテンバイク Gattan Go!!やニュートリノ観測装置スーパーカミオカンデなどに転用されている


土倉鉱山。滋賀県では珍しい銅鉱山だったが昭和40年に閉山。





さらに奥にもいくつか間歩があるようだ。
もう少し進んでみる。







台所間歩。
「台所」の由来は「大坂城の台所事情(財政)を潤すほどたくさん銀が採れた」ことから。
豊臣秀吉は鉱山開発に投資するだけでなく実際にこの場所に何度も足を運び視察したと言われるほど重要な収入拠点だったようだ。


入り口が崩落してふさがってしまっている。



こちらは「瓢箪間歩」。
瓢箪(千成瓢箪)は豊臣秀吉の馬印(戦場での個人のシンボルマーク)で、それをここに掲げることを許したほどたくさん銅銀が産出したのが名の由来だそうな。
台所間歩や瓢箪間歩は、秀吉以降も江戸幕府直轄地として財政の一端を担ったという。

こちらは入り口健在だが、しっかりと鉄格子で塞がれている。




ネットで調べると、20年くらい前のこの場所の探訪記を見つけた。
その頃は台所間歩、瓢箪間歩ともに入り口付近まで行けて(中には入れなかったようだが)中を覗けたようだ。

写真を見るとガチの洞窟!と言った感じで雰囲気ばつぐん。
できれば自分も見てみたかった。

いつか青木間歩のように整備されて公開される日は来るだろうか。










瓢箪間歩のさらに先へ進んでみる。
道はそこで行き止まりのようだ。





道ばたに「石敢當」を見つけた。
表記は「石散当」とあるが、意味としては石敢當と同じで「魔物よ!この石に当たって砕け散れ!」みたいなニュアンスだと思う。


石敢當は元々は今から1000年くらい前の中国発祥の魔除けのまじないらしい。

今も沖縄では道ばたでよく見かける。
魔物は直進する性質があるため、丁字路や三叉路に置くことで、これに当たった魔物は砕け散ると信じられて置かれているそうだ。
本州におけるお地蔵さんのような立ち位置かもしれない。



ここの「石散当」は誰がどういう理由でここに建てたものなんだろうか。
特に分かれ道でもなく、道の隅っこの方にぽつり。
かなり古いものに見えるけれど。

方向的には、奥に建物跡があるのでそこに魔物が入ってこないようにするため?







行き止まりに半ば朽ちかけた廃虚がたたずむ。


工場跡? 住居跡?
特に案内板はなく、鉱山と関係するものなのかもよく分からない。
いや、「鉱山と関係しない場所だから」何も表示がないのか。


これは完全な推論だけど、先ほどの「石散当」はこの建物ができるよりずっと古いものに見えたので、置かれた当時は石散当で魔除けを行いたい「何か」がここにあった……のかもしれない。




綺麗な水に、小魚がたくさん泳いでいる。このあたりは水が豊富なことも、この鉱山が閉山した一端らしい。鉱山内での排水は非常に大変だからだ。










「たまごパック発祥の地」

話は多少前後するが、先ほどの「大露頭」の少し手前に、興味深い看板があった。





第1工場跡。

現在使われている「プラスチックのたまごパック」を発明したのは加茂守氏。
たいへんなアイデアマンで、「たまごが割れにくく」「上に重ねても潰れず」「中が見えて」「低コストで」理想のたまごパックを求めて何年も試行錯誤を繰り返し、ついに透明なたまごパックを開発したそうだ。

その後も改良は続き、「リサイクルしやすい素材を使い」「衛生的で」「テープを引くだけで誰でも簡単に開封できる」現在のたまごパックが完成した。






何十年も経った令和の現代まで形を変えていないのがその完成度の高さを表している。


その後、加茂氏の娘さんには子供が居なかったこともあり他の企業に会社事業を譲って引退。
地域貢献活動に力を入れるようになった。



その一環に多田銀銅山への支援がある。
かつてここにたまごパックの工場を建てていた縁もあり、また加茂氏にとっては子供時代の遊び場でもあったこの銀銅山の観光地化を盛り上げるべくあれこれ奔走したそうだ。

その後多田銀動産は国史跡に指定され、整備が進んだ。

山が奥まったこの場所で現在ネットが繋がるのも、「観光地とするからには電波がつながらないのは緊急時に困るから」と自分が所持していた土地の一部を電波基地局用に自治体に提供したことによる。
これは意外と最近、令和元年のことだそうだ。

そしてその翌年、病気により加茂氏は85歳で亡くなった。






加茂氏の功績については猪名川町が出版している伝記マンガがあるので、リンクを載せておく。
https://www.bgf.or.jp/bgmanga/219/#bgmanga-more








タンサニア――ウィルキンソン記念館

多田銀銅山を後にして、いよいよ「タンサニア」に向かう。
タンサニアとは「タンサンの街」という意味で、かつてウィルキンソンという人物が提唱した造語だ。


ウィルキンソン。
そう、あの強炭酸水の有名ブランド「ウィルキンソン タンサン」を作り上げたジョン・クリフォード・ウィルキンソンその人だ。


残念ながらブランド名ほどには、「タンサニア」の呼称はメジャーにならなかった。
古来より今も、その場所は「宝塚」と呼ばれている。



まずは、ウィルキンソン記念館を訪れた。

この場所は数十年前まで「ウィルキンソン・タンサン株式会社宝塚工場」があったところで、さらに遡れば明治時代、この裏山で狩猟をしていたウィルキンソンが喉が乾いたにも関わらず水分が何もなく(従者が全部飲み干してしまっており)、仕方なく山中で湧水を探したところ偶然炭酸泉を発見したという「ウィルキンソン・タンサン発祥の地」でもある。

この水の質があまりによかったため彼は水のサンプルを英国の研究機関へ送ると「最高レベルの水質」というお墨付きが返ってきた。
これを機に、ウィルキンソンは日本国内外にいるセレブをメインターゲットとしてボトリング販売を開始する――――






そんなウィルキンソン発祥の地には高いマンションが建っていて、往時の面影は見られない。
が、隣接する公園の奥にひっそりと洋風の建物がたたずんでいる。

それが次の目的地の「ウヰルキンソン記念館」だ。


こぢんまりした建物だが、よく見るとウィルキンソンロゴのついた自動販売機が見える





事前にネット情報で調べていた通り、「ウヰルキンソン記念館」という名目ではあるものの実体はほぼ「地域の公民館」のようだ。
歌や踊りの会の参加者を募る地域感あふれる張り紙の中にある色あせた「ウィルキンソンタンサン」の張り紙がむしろ異質に見える。




かつてのライバルがアサヒの傘下で並び立つレア?ポスター




まずは自販機でタンサンを購入。

カラカラとなっていた喉を強炭酸で潤す。
あー! うまいっ!!





館内には誰もいなかった。
靴を脱いでスリッパに履き替え、2階にあるらしい展示室へ向かう。

やたら存在感のある卓球台のその向こうの一室が目的地らしい。





ウィルキンソンは最初、「宝塚ミネラルウォーター」という名前で販売を開始した。
が、すぐに「炭酸」のローマ字表記である「TANSAN」という言葉を前面に推し出すようになった。
海外にもこの名称で販路を広げ、日本国内でもTANSAN表記の独占を図った裁判記録が国内外に残っている。


一般名詞をローマ字にしただけということ、他の炭酸飲料メーカーからの反発もあってけっきょくTANSANでの商標取得は叶わなかったが、彼はその後も「タンサン」という言葉には非常に強いこだわりを持っていたようで、商品名を「宝塚ミネラルウォーター」から「ウヰルキンソン タンサン」に変更。

高級ホテルである「タンサンホテル」まで作って、炭酸水の主要顧客である訪日外国人の誘致に情熱を注いだそうだ。



タンサンという言葉を推した背景には、本拠地である地名の宝塚「タカラヅカ」が欧米人にとって発音しにくかったことも理由だったと言われる。
先述した「タンサニア」もそうだ。
「タカラヅカ」ではなく「タンサンの街・タンサニア」という呼称を勝手に広めようとした。



宝塚という地名は歴史が古く、塚=古墳がたくさんあって文字通り「宝塚」と呼ばれた古墳が複数あったことが由来となっている。
そうした由緒ある地名を別の国からやってきた事業家が勝手に改名しようというのはずいぶん乱暴な話だ。
今の時代なら即大炎上に発展したことだろう。



とはいえ歴史的には、企業の影響力による地名の改変自体は例がないわけじゃない。
日本でいちばん有名なのは挙母ころも市だろう。

挙母は1000年以上前から続く由緒正しい地名だったが、1958年に、市内にあった超有名な企業にちなんだ名称へと改名された。
トヨタ自動車によって「全国有数のクルマのまち」となった、「豊田市」として。


ウィルキンソンタンサンがトヨタ並の大企業に成長していたら、宝塚市が「タンサニア市」となっていた世界もあったかもしれない。


そういう経緯を踏まえた上で現在のウィルキンソンタンサンのラベルを見ると、趣深い。



今も残るウィルキンソンの夢の跡。「TANSAN」の表記。





ちなみに、ラベルに描かれている「Since 1904」表記だが、ウィルキンソンが炭酸水(宝塚ミネラルウォーター)を販売し始めたのは1890年。
1904年とは、現在ウィルキンソン記念館がある場所にウィルキンソンの工場が移転した年だ。

なぜ移転したか。
最初取水していた炭酸鉱泉が枯渇したため、近隣を探索してそこにあらたな炭酸鉱泉を発見したからだ。



少し経緯を整理しよう。

1889年。
最初にウィルキンソンが炭酸鉱泉を発見したのは、今居る記念館の裏山あたり。
その意味で、ここは「ウィルキンソン・タンサン発祥の地」といえる。


次に、翌年の1890年。
事業化に際してある程度の水量が必要となり、取水場所に選んだのはここから2、3キロほど南、バイクで10分くらいの距離の場所。
そこが事業としての「ウィルキンソン・タンサン発祥の地」とも言える。
当時は個人事業であり、ブランド名も「仁王印ウォーター」だった。


その後水量が減ったためまた取水場所を探し、工場を移転させた。
現在記念館がある場所だ。
これが1904年。
移転を機に会社化し、名前も「ウヰルキンソン・タンサン鉱泉」とした。
そういう意味でもここは「ウィルキンソン・タンサン発祥の地」となる。


旧ウヰルキンソン・タンサン鉱泉工場の模型。
ウィルキンソンに関する資料や各種グッズ、新聞記事などが展示されていた。



意外なところでは、アメリカ発祥のオレンジジュースである「バヤリースオレンジ」を日本で最初に取り扱ったのもウィルキンソンだそうだ。
製造販売権を取得した上でジュースの原液を輸入し、この宝塚工場で水を加えて全国へ販売した。



ウィルキンソン記念館の入場料は無料。

電気のオンオフは来館者が責任をもって行う。
訪れるときは忘れないようにしよう。



記念館の周辺を少し歩いてまわる。
かつて工場があった土地だからか道路がやけに真っ直ぐで見通しが良い。



路肩のうねうね線はなんだか珍しい。どういう目的のものだろう?地面が凸凹してるのかな?





記念館から道を挟んだところには武庫川の広い河川敷が見える。






細い橋がかかっている。
あまりに細いので最初は水道施設か何かかと思ったが、見ているとぽつりぽつり、地元の人らしいおじさんやおばさんがその上を渡っていた。

お、行けるのか!








めちゃくちゃ細い。大人ふたりが行き交うのは無理な細さだ。
すれ違うときにはどちらかが体を横にしてスペースを空ける必要がある。

それでも、見ている限りそれなりに利用者は多いようだ。
かなり年季の入った橋のようだし、地域の人にとっては子供の頃から慣れ親しんだ普通の歩道橋なんだろう。
橋の欄干は結構高めなので、誤って落ちることはまず無さそうだ。

ウィルキンソンの工場があった頃は通勤にも使われていたのかな。
通勤目的なら基本的に一方向に人が流れるから、人一人通れる幅があれば問題はなかっただろう。










さて、次はここから数キロ南にあるという、ウィルキンソン最初の工場跡地の方へ行ってみよう。






「タンサンここ出ます」――宝塚タンサン湧出地

道中、川の左右の風景の対比が非常に面白かった。


広く浅い武庫川のこちら側はごつごつとした巨岩がたたずみ木々草花が生い茂る自然み溢れる地形な一方、対岸の河川敷は美しく整備され、その向こうにはたくさんのマンションが建ち並び、さらに背後の山々には高層マンション群がレイリー散乱で蜃気楼のように霞んでいる。






川のこちら側は、山と川のわずかなスペースに細い道が伸びているが、そのさらに狭い山裾にも滝やら廃トンネルやらの見所があるようだ。





興味はあったものの、崩落があったらしく入り口はビニールテープで封鎖されていてそこここに「立ち入り禁止」「キケン」「立ち入り禁止」「自己責任」「自己責任」と書かれていて物々しい。
まるで封印された禁足地のような雰囲気さえ感じる。

立ち入り禁止がこの先解かれることはあるんだろうか。
とりあえず今日はあきらめて、またあらためて訪れてみよう。



立ち入り禁止区域にぽつんとたたずむド○えもんが良い味出してる










そこからさらに数分走ると視界が開けて周囲は一気に「都市」の様相に変わった。






交差点の片隅にはなにやら存在感を放っている自動販売機。
そこには…………





なんとウィルキンソン・タンサン専用販売機!!
黒基調の外観に、ずらり並んだ赤いラベルのインパクトがすごい。

ここが1890年、ウィルキンソンが最初に炭酸水販売事業を開始した場所なのだ。
先述したとおり、当時はまだウィルキンソンではなく「仁王印ウォーター」ブランドだった。


運営しているのは近所の自動車屋さんのようだ。
側面には「タンサン・ヒストリー・マップ」が。




看板の背後にある建物は、宝塚温泉の入浴施設。
今朝訪れた三ツ矢サイダーの炭酸泉と同様に、ここでも炭酸泉と温泉がひも付いているのだ。

そして、自動販売機から道を挟んで反対側には――






この橋の下で、かつて炭酸水が湧いていたのだ!






交差点の角にはタンサンせんべいの老舗がある。
創業は明治30年、まさにこの付近でウィルキンソンが炭酸「仁王水」をボトリングしていたその時代だ。

かつてあったウィルキンソンの炭酸工場の跡地は住宅街となっていて当時の面影は残っていない。
彼が心血を注いだタンサンリゾート計画のシンボル、タンサンホテルも同様だ。

ただ、美しく近代的な町並みだけが今そこにある。







自分も、炭酸を追いかけてここに来ていなければこうやって立ち止まることも、この場所にこんな面白い歴史があったことを知ることさえなかっただろう。



自分の中のアンテナ、興味の広がり次第で、旅で見える景色というのはこんなにも変わるものなのだ。








「天然 たんさん水 この下あり」

この石碑はウィルキンソンの頃にあったものを写真を手がかりに最近再現復元したものらしい。
自動販売機横の看板によればなんと今もこの碑文通り、「この下で天然たんさん水が湧いている」のだそうだ。

ワクワクしながら、川辺へ降りる道を探した。
温泉施設の横にそれらしい看板を発見。



「徒歩約30m。タンサン湧出場あり」




階段下の遊歩道を歩き、先ほどの石碑の真下あたりにやってきた。
壁面から何かが生えている。



指を差す手を模したような木の板に、ひらがなで「たんさん」の文字。
指し示している先にあるのは、川だ。


反対側はカタカナ表記





近くに泉らしきものはない。
ただコンクリートとアスファルトで舗装された壁と地面があるだけ。

ということは……






もしかして、川の中のこのボコボコ出ている泡が…………





やはりそうなのだ。
現在、この場所の炭酸泉源は水中にある。

炭酸泉ではなく、残念……な気持ちもあるが、「炭酸が湧いている川」という事実もそれはそれでとても面白い。
思わず見入ってしまう。




ぽこ、ぽこ、ぽこ…………

目を凝らすと、川底から今も湧き続けている事が分かる。
湧出口は1箇所ではなく、直径10メートルくらいのエリア内のあちこちから漏れ出しているようだ。

「勢いよく」と言うほどではないけれど、それでも絶えず上がり続けているこの気泡の量からすると、もし水中じゃなく地上で湧いていたら、けっこう炭酸強めの泉になったのかもしれない。



初代風雨来記では、北海道・屈斜路湖の砂湯にある「ここ 温泉 出ます」という印象的な看板が紹介されていた。
砂湯の文字通り、湖岸の砂浜を掘ると至るところから温泉が湧き出すという場所だ。


宝塚では、「ここ 炭酸 出てます」と言ったところか。
あと数メートルこちら側に湧出口があったら、「掘れば炭酸水が出る」河原というのもあり得たかもしれない。




ぼーっと川面を眺めながら「なんとかしてこの川から炭酸水だけを飲む方法はないものか」と考えたものの特に何も思い浮かばず。



今日行きたい場所はまだまだある。
タンサニアを後にし、次なる「炭酸の地」へ向かうことにしよう。




余談だが、ウィルキンソンの孫のハーバート・クリフォード・ウィルキンソンは、ウィルキンソン・タンサンの代表取締役に就任していた1985年の全国長者番付(納税額)で2位にその名前があがっている。
これには、ウィルキンソンの商標権をアサヒビールに売却したことが要因のひとつとなっていると考えられる。









「有馬温泉の毒水 タンサン坂・炭酸泉源公園」

ウィルキンソン工場跡地からバイクで三十分弱のところに、有名な温泉地・有馬温泉がある。
神戸市にあるこの温泉地も、「タンサン」と切っても切り離せない場所だ。







有馬温泉の特徴として、ひとつの温泉街に「鉄分と塩分を多く含む金泉」「ラジウムや炭酸を多く含む銀泉」という全く別の性質の湯が湧いていることがあり、その効能はあわせて7種類以上という。




金泉は、温泉街のあちこちに複数の源泉が湧いている




今回は、炭酸泉である銀泉の源を訪ねるのが主目的だ。


銀泉が温泉として利用されるようになったのは明治以降のことだそうだ。
それ以前は有馬温泉の湯といえば金泉のことを言った。


というのも、有馬の村では炭酸泉は健康に良い「醴泉」ではなく、「毒水」と呼ばれ長らく恐れられてきたためだ。


「鳥類、虫、けだものがこの水をのめばたちどころに死すなり」


「毒水」の湧出地近くは勢いよくガス(炭酸ガス)が噴出し、その周囲で鳥や虫がよく死んでいたため「地獄谷」「鳥地獄」「虫地獄」という地名が今も残っている。


それが明治になって、毒水が「良質な炭酸泉」であり「飲むとむしろ健康にも良い」ことが科学的に証明された結果掌は返されて、「銀泉」としておおいに活用されるようになったんだそうだ。

今回はそんな銀泉——炭酸泉源はもちろん、金の湯やサイダーなどいろいろ楽しむつもりで楽しみにやってきた。












炭酸泉源を探して温泉街を歩き回る
坂が多い。道は入り組みアップダウンの繰り返し
神社の跡地でのんびりくつろぐ黒猫






15分ほど探してようやく目的の場所、かつて毒水と呼ばれた炭酸泉湧水地である「炭酸泉源公園」に到着した。
有馬温泉街の中でもかなり奥というか坂のいちばん上の方にあって、金の湯やお土産物屋のある通りではごった返していた観光客の姿はここではまばらだ。









年季の入った「炭酸水」石碑に期待が高まる。
奥の方に四阿あずまやを立派にしたような建物が見えた。あれが泉源だろう。





神社の屋根のような四阿





「昔は砂糖を入れてサイダーとして飲まれていました」

これが日本のサイダーの発祥という説もあるそうだ。
なるほど!砂糖を持ってくればよかった!

調べてみたところ割と最近、1995年の阪神淡路大震災まではこの付近に、泉源で汲んだ水に砂糖を入れて販売する茶店があったそうだ。



この泉源から引いた炭酸水を加熱することで「銀泉」となる






「三ツ矢サイダー炭酸ガス採取地」の項ですでに触れたように、温泉の定義は「25度以上の水温」もしくは「定められた19種類のうち1種以上の成分を一定量含む」のどちらか、あるいは両方を満たすことと温泉法によって定められている。


炭酸ガス採取地では「籠坊温泉」、ウィルキンソン発祥地では「宝塚温泉」、そしてここ「有馬温泉」。
飲んで良質の炭酸泉は、浸かって最高の温泉でもあるわけだ。

これらは20度以下の冷泉なので各温泉地では適温まで加熱されているものの、炭酸泉は冷たい状態であっても入浴すれば炭酸ガスによって血流が促進されて体がぽかぽかと温まるので、まごうことなき「温泉」と言っていいだろう。





事前情報によれば、この炭酸泉源ではいまもこんこんと炭酸泉が湧き続けていて、飲用するための施設も備えられているそうだ。

って、あれ…………








この炭酸泉は飲むことができます。
右のレバーを押してお飲みください。


とのたまう説明の横にレバーはなく、代わりに真新しい蛇口が設置されている。
が、その蛇口からは「使用禁止」と書かれたやはり真新しい札が提がっていた。



使用禁止





予想外の状態にしばらく呆然と立ち尽くしてしまう。
その理由は泉源らしき場所をみてすぐにわかった。








か、枯れてる……


ネットで見た写真だとこの円い石桶から水が湧き出していたのに、今はカラカラだ。
同じ源泉を使っている「銀の湯」は今日も営業しているようなので、完全に枯れてしまったわけではないんだろうけど……


銀泉――炭酸泉源は、一帯の山々に降った雨水が地下に染みこんだあとで土壌に含まれた炭酸成分を含んで湧き出したもの。
水源が地表に近い分、季節などによる降雨量の影響や周辺地域の環境、開発状況などの影響を受けやすいのかもしれない。



せっかく「天然の炭酸水」を美味しく飲もうと、有馬に来てからここまで水分を取らずにしてきたのに、残念だ。


気を取り直して温泉でも入ろうかと歩き出す。
すると泉源から少し下ったところに小さな親水広場みたいなものを見つけた。




岩で組まれた湧水口からは、ぽちょんぽちょんと少しずつだが水が染みだしていて、周辺は泉源と同じく赤茶色に染まっている。






位置的には先ほどの泉源と地中で繋がっているようなので、おそらく同じ炭酸泉なんだろう。
水を手ですくって口に含んでみる。
炭酸感は全く感じられなかった。

やっぱり「噴き出したて」の状態でないと「気が抜けてしまう」のは炭酸の宿命なんだと思う。



それでも、自分の舌で天然の炭酸水を味わえたことには変わりはない。
今日の目標をまたひとつ達成できたのだ。





ありまサイダーと炭酸せんべい(割れ)




炭酸泉源公園のすぐそばにある炭酸せんべい屋さんで、せんべいとサイダーを購入して一休みした。
近くに備えられているベンチに腰掛けて、乾いた喉を早速潤す。



これがとても美味しかった!
喉が渇いていたことを差し引いても、甘味が絶妙かつ酸味と香りが透き通った感じでものすごく完成度が高い。
飲み終えたあとに口の中がべたつかず、ものすごく爽やか。

ここまで美味しいなら、日常でも常飲したいくらいだ。



有馬サイダーは、明治・大正の頃、現在でも販売されている「三ツ矢サイダー」や「リボンシトロン(北海道では姉妹品のリボンナポリンと合わせて今もお馴染みの飲み物だ)」と同時期に販売されていたサイダーのひとつだが、今から100年前――1926年に消滅してしまった。
それを平成に入ってから復活させたのがこの「ありまサイダー てっぽう水」なのだそうだ。



次は銀泉、そのあと金泉と立て続けに温泉を堪能しよう。














ラジウムや炭酸を多く含む銀泉を楽しめる公衆浴場「銀の湯」。こちらの源泉は一ヶ所






公衆浴場である「金の湯」「銀の湯」のセット入浴券が販売されていたので購入。
まずは銀泉を楽しむ。


入浴していて炭酸のシュワシュワ感はなかった。
大分のラムネ温泉のように肌に泡がつくということもなく、知識がなかったら(以前訪れた時の自分のように)これが炭酸ということさえ気づかないだろう。

知っていれば、なんとなく「このポカポカ感が炭酸による血行促進効果かな?」と感じられるかも。
良いお湯なことには間違いない。



次は金泉へ。




鉄分と塩分を多く含む金泉を楽しめる外湯「金の湯」




金泉を手軽に楽しめる公衆浴場「金の湯」。



本来の有馬温泉といえば、永らくこの金泉のことを言った。

永らくというのは本当に永らくで、有馬温泉は神話時代から続く日本最古の温泉「三古泉」のひとつで日本書紀と摂津国風土記に記載がある。
オオナムチとスクナヒコナが、この地で湯を浴びて傷を癒す3羽のカラスを見つけたことが発祥という。
そこから明治時代になるまでは、有馬の湯=金泉だったのだ。




20度に満たない冷泉である銀泉と違い、金泉は100度近い高温で湧出しており、まさに「温泉」。

なぜこの場所でこのように熱い湯が湧いているのか謎に包まれている。
あたりには火山もなく、熱源が見当たらないからだ。
にもかかわらず、火山性の成分を含む上に海よりも塩分濃度の高い泉質。


有馬温泉の金泉は、有馬温泉(及びその周辺地域)のあちこちで湧き出している。
近寄るだけで蒸気が熱い。







温泉というものは、「地下水」とニアリーイコールだ。


地中に潜った水には、地中の岩石などから様々な成分が染み出す。
そうやって「成分が人間の定めた基準以上に含まれた地下水」が温泉と呼称されるわけだ。

そしてもうひとつ。
地中にある熱源——火山とか、プレートの摩擦とかによって「人間の定めた基準以上に温かい地下水」も温泉と認定される。




この日この旅で訪れた炭酸泉はすべて冷たかった。
六甲周辺の地中には、炭酸(二酸化炭素)を含む地質が多い一方で火山などの熱源はないということがわかる。

にも関わらず、有馬温泉周辺の「金泉」だけが猛烈に熱い。
すぐそばで湧いている銀泉は冷たいにも関わらず。

つまり金泉の根源は、銀泉とは全く別にあるということになる。




温泉街にはあちこちに金泉の泉源がある。たとえば神社の中にも。
金泉の成分で石の色も赤金色に。温泉成分の強力さが「街の色」として視覚で伝わって来る。
泉源から少し離れた階段まで変色しているのは、雨で泉源から湯の成分が流れてくるからかな?






金泉の謎は、最近の研究で解明されつつあるそうだ。

有馬の金泉は地下約60キロ、マントル近くで熱せられた地下水が一気に上昇して湧出している、という説が今は有力らしい。


ふつう地下水といえば地表から数十〜せいぜい数百メートル地下を流れているもの。銀泉の水源も同様だ。
それを考えると地下60キロというのは桁違いの驚異的深さだ。



日本列島は、ユーラシアプレート、北米プレート、太平洋プレート、フィリピン海プレートの四つのプレートのせめぎ合いで盛り上がった陸地。

このうち太平洋側のフィリピンプレートと日本海側のユーラシアプレートが衝突したときに、フィリピンプレートはユーラシアプレートの下に沈み込んだ。
そのとき海底の土や海水も一緒に巻き込んだと考えられる。


それらはプレートによって圧縮されながら深く沈んでいき、やがてマントルに近い地下約60キロ付近まで到達。
そこで熱せられた圧力によって今度は地上まで一気に上昇した――それこそが「有馬の金泉」なのだそうだ。

(この地下60キロで起こっている運動が、阪神淡路大震災の引き金となったと考えられている




(図)

このため、金泉は一般的な雨水由来の温泉とは違い、マントル由来のヘリウム3やリチウムなどのレアメタルなどを含む他、山の中にあるにも関わらず海水の二倍近い塩分濃度を持つという異質な特徴を持つとても面白い温泉なのだ。


以前にもこの金泉をバイクで訪れたことがあった。
当時は肌荒れがひどく、手や腕に湿疹やかさぶたが広がって困っていた。
寝ている間にかきむしってボロボロになってしまったりして痛いし苦しいしでちょっとでも改善できればと思って訪れたのだ。

そうしたら、期待を遥かに超えてものすごく素晴らしい泉質だった。



結果的に肌荒れの原因は別にあったので根源的な治療にはならなかったけど、それでも入浴から数日は肌がサラサラになって生き返るような気分になった。
それ以来、有馬温泉は自分の中で最高の温泉と呼べる場所のひとつだった。



だけど、今回はそういう感動はなかった。以前来たときよりも薄くなったような気がした。
前回の体験から神格化しすぎていたのだろうか。


自分もあちこちの温泉を巡って、舌(肌?)が肥えたのかもしれないし、今はあのときほど温泉効果を体が切実に求めていないからかもしれない。


あるいは、自然のものだから前回と今回で泉質が変わっている可能性もある。



ネットの温泉情報によると、金泉は片手で数えられないくらい源泉があるらしく、それによっても差異があるそうだ。

次はまた別の金泉にも挑戦してみよう。















有馬温泉は先述したとおり日本最古の温泉のひとつとしても知られている。
神話に始まり、日本書紀では複数の天皇が行幸した記録がある他、戦国時代には秀吉が湯治のためにたびたび訪れたという。



温泉神社にも参拝





歴史が長いということは、色々な要素やエピソードの積み重ねがあるということ。
今後もまた、何かの旅の途中で自分の道がこの有馬温泉と交差することもあるかもしれない。











三ツ矢サイダー発祥の地~平野鉱泉

有馬温泉を後にしていよいよ、今回の炭酸巡りツーリングにおける最終目的地・兵庫県川西市平野ひらのを目指す。






この「平野」という地名は「炭酸ポイント」が高い。
「三ツ矢サイダー」がまだ「三ツ矢」でも「サイダー」でもなかった頃、歴史の一番初期においては「平野ひらの水」という名前の炭酸水としてスタートしたからだ。



有馬からは一時間とたたずに平野へ到着。
あたりはもう夜の帳が降りつつある。

ここに至る道路は思っていた以上に交通量が多く、道路沿いにはコンビニ、食事処やスーパーマーケット、ホームセンターなどが連なっていた。


三ツ矢サイダー発祥の地を伝える看板を見つけた






このブログを書く際に調べて知ったことだが、「平野ひらの」はこの朝訪れた「多田銀銅山」の一部らしい。
地図でみてみると、確かに距離は近い。

元々、このあたり一帯が「多田銀銅山」という採掘地だったそうだ。
平野駅のすぐ南に多田という地域があって、「多田銀銅山」の「多田」という名も、元々この多田の鉱脈から始まった名残なのかもしれない。


鉱脈を探して「多田銀銅山」を拡大していった結果、最終的に行き着いた「宝の山」が現在「多田銀銅山」として史跡になっているあの場所だったんじゃないだろうか。






そんな銀山の一角にある平野(ひらの)では、古くから炭酸を温泉として利用していたらしく、か中世~近世までは「平野温泉郷」としてそこそこ有名だったそうだ。摂津三湯に数えられていたとか。
しかし多田銀銅山の衰退もあってか、江戸の終わり頃にはすっかり廃れてしまっていたという。


そして明治時代。
来日外国人向けに炭酸水需要が爆増し、民間で炭酸ボトリング事業が流行したことは今回の記事の最初で触れた通りなのだが、良質な鉱泉を必要としていたのは政府機関も同様だったそうだ。


中でも宮内省は、海外から訪れた外国人要人への接待用として飲用に適した炭酸水を求めていたため、イギリス人学者のガラン氏(ウィリアム・ガーランド)に調査を依頼した。



ガラン氏は、日本の造幣局で硬貨を作るための技術指導者として公的に招聘された人物だが、日本を気に入ったらしく3年の任期を更新し続け16年も勤務した。
その間の功績から、多数の勲章を授与されている。


と、本業もすごいのだが、それ以外のエピソードもものすごい。


「仕事の合間の趣味として、日本全国の400を超える古墳を調査(撮影・測量・遺物の収集等)して多大な研究成果を挙げ」たり、

「仕事の合間の趣味として、日本ではじめて西洋式登山を行」ったり、

「信州の山岳地帯を『日本アルプス』と命名し世界に紹介し」たり(つまり日本アルプスの名付け親)、

「日本での古墳調査の経験を活かして、本国イギリスのストーンヘンジをはじめて広範にわたって調査した結果、巨石がその場所で加工された痕跡を発見し、その年代を解明した」りと、趣味における日本への貢献も非常に大きい人物なのだ。



中でも古墳の調査は現代でも通用するほどの精度で、彼が調査した中にはその後の土地開発で消滅してしまった古墳も含まれているため、彼が残したデータや発見・保存した遺物は大変貴重であり、そうした功績から現代でも「日本考古学の父」と呼ばれている。




そして、1881年。
宮内省からの依頼により「優れた炭酸鉱泉」を求めて近畿一帯を旅したガラン氏はこの平野に辿り着き、当時すでに廃れてしまっていた平野鉱泉を再発見。
その水は求めていた高い水準を満たしていたため、すぐに宮内庁管轄の炭酸水工場(御料品工場)が建てられることが決定した。





それから数年経った1884年、政府管轄だった多田銀銅山が民間の三菱財閥に払い下げられることになった。
それに伴い、平野の炭酸鉱泉も三菱から「平野水」という名前で一般販売されるようになった。


さらに翌年の1885年には平野水の採取権が今度は明治屋に移って「一本矢礦泉」という名前に変わり、さらに1889年には「三ツ矢平野水」という名前に変更されている。


その後も1895年には三ツ矢平野礦泉という合資会社が作られてそこで販売されるようになったり、1905年には帝国鉱泉株式会社が設立されたり、砂糖とクエン酸を加えた甘酸っぱい炭酸水(三ツ矢サイダーの原型である「三ツ矢シャンペンサイダー」)が登場したりと紆余曲折あった末に、アサヒビールのブランドとなって現在に至っている。

※北海道でおなじみの「シトロン(1909年)」や「ナポリン(1911年)」はほぼ同時期に誕生した同期。戦前まではアサヒのサイダーは現在北海道でおなじみの「リボン・シトロン」だったが、戦後にアサヒが三ツ矢を継承したことで「三ツ矢サイダー」に代わったという経緯がある。





ここで突然現れた「三ツ矢」というネーミングだが、これは平安時代のこのあたり一帯で活躍した武士・源満仲の九頭竜討伐伝説にちなむもの。

とはいっても、源満仲はスサノオがヤマタノオロチを退治したように、九頭竜をやっつけようとしたわけではなかった。

ある時満仲が自分の城を建てるのにふさわしい場所を住吉神社で占って貰ったところ、鏑矢を討って落ちたところがいいという神託が出たのでその通りにした結果、その矢がたまたま平野に棲みついて住人を苦しめていた九頭竜に着弾した――のだそうだ。


それで満仲は平野に住むことにしたのだが、このときに落ちた鏑矢を見つけた孫八郎という人物に「三ツ矢姓」と「三ツ矢紋」を授けた。
元々は「三本の矢」ではなく「満仲の矢」だったのが、「みつなかのや」→「みっつのや」→「みつや」となったという説もあるそうだ。

そして平野に居を移してからしばらくした頃、満仲によって平野の炭酸鉱泉が発見されたのだという。



そうした縁から「平野水」が「三ツ矢」と銘打たれたわけだ。

「三ツ矢」という短い単語ひとつに、平野という場所とそこに伝わる神話伝承を内包している。
数ある飲料ブランドの中でもトップクラスに含蓄の深いネーミングではないだろうか。








三ツ矢の平野工場跡地にはホームセンターのコーナンが建っている。






山奥にあった「三ツ矢サイダー炭酸ガス採取地」と違って、ここは幹線道路国道173号線沿い。
交通量がめちゃくちゃ多い。

かつては多田銀山から産出した銀が運ばれ労働者や商人たちで賑わい、また三ツ矢の平野工場で栄えていた頃も通勤や輸送車の姿も多かったことだろう。



歩道の片隅に架けられた看板の案内に従って、「三ツ矢サイダー発祥の地」を目指し歩いていく。
ほんの3分ほど、コーナンの裏手にまわって搬入口や従業員入口のある建物のさらに奥に、それはあった。





闇の中にぽつんとたたずむ白い塔、そこに見慣れない「青色」の三ツ矢のロゴが浮かぶ。












ここが、三ツ矢サイダー発祥の地らしい。
今でもアサヒの管理下にはあるそうだが、工場の姿はすでにない。

「三ツ矢塔」と言われる白い建物だけが静かに立ち尽くしている他、この塔の後ろには、明治時代に宮内庁からの依頼で皇室に献上する炭酸水を作っていた「御料品製造所」が残っているそうだ。





ガラン氏が再発見した「平野水」はこの敷地内で今も沸き続けているというが、残念ながら湧出地そのものには立ち入ることはできない。

ただ、水が勢いよく流れ出している音だけは聞こえる。
これはただの流れてきた沢水なのか、それともここで湧出した炭酸水なのか。

あたりはすっかり暗くなっているのもあって判別ができなかった。







この日の最初の目的地だった「三ツ矢サイダー炭酸ガス採取地」。
そこで得た炭酸ガスを、ここの炭酸泉に加えて販売していた……とはいうが、ここで湧いていた炭酸水は炭酸が弱かったということだろうか。
特にそのあたりの情報は書かれていない。


あるいは「弱くなった」から、別途にガスが必要となったのか。

基本的に、炭酸は「気が抜けていく」もの。
ウィルキンソンが工場を移転したのも炭酸水の枯渇が理由だった。


炭酸鉱泉というのは、地質にもよるだろうがあまり長い年月同じ泉源で維持はできないものなのかもしれない。

それを考えれば、今回冒頭で触れた岐阜の菊水泉も現代でこそ極微炭酸だけど、それは年月を経て炭酸が抜けてしまったからで、もっと昔――たとえば元正天皇が訪れて感動した頃は、強炭酸の泉だった可能性もある。




滞在中二度ほど踏切が鳴って電車が往来した。午後7時という時間の割に、頻度はかなり少ない。




昔は敷地内を見学できたそうだが、今はメディアの取材などを除いて基本的に立ち入り禁止だそうだ。残念。


ネットで見つけた情報では川西市では毎年3月28日を「三ツ矢の日」としており、三ツ矢サイダーの無料配布などのイベントを行っているそうだ。
そのうち自分の休みとタイミングがあえば訪れてみたいと思う。













あたりには、宝塚の「ウィルキンソン・タンサン専用機」のように「三ツ矢サイダー専用自動販売機」は見つけられなかったので、近隣のコンビニに立ち寄って購入した。






期間限定の増量品だった。
これはここが三ツ矢サイダー発祥の地であることと関係があるのだろうかそれとも全然関係ないんだろうか。

そんなことを考えながら、この日の「炭酸巡り」の締めくくりとして三ツ矢サイダーを飲む。
子供の頃から変わらない普遍的な味わい。
これぞ日本のサイダーだ。


よしよし。
それじゃあ、帰ろう!

今回も良い旅になったなと満足しながら、バイクにまたがって帰路へ就いた。













ところが、炭酸巡りの旅はここで終わらなかった。






出雲の国の炭酸水――頓原ラムネ銀泉

六甲炭酸巡りの旅から二週間後――





三年連続となる島根旅に出た自分は、連日続いた大雨に予定を狂いに狂わされた結果、出雲と石見の境にある飯南町頓原という場所に迷い込んだ中で「頓原天然炭酸温泉 ラムネ銀泉」に辿り着いた。







ラムネというとなんとなくラムネ瓶を連想して青っぽい湯色を期待してしまうが、頓原ラムネ銀泉は金色の湯だ。

金色なのに銀泉とはこれいかに、といった感じだが湧出した時点では無色透明の「銀色」の湯。
それが時間経過とともにグリーンがかって黄色味を帯び、最終的に金色に変色するらしい。

ここも、有馬の銀泉と同じく冷泉で、湧出時点では15度程度。
それを加温して温泉として提供しているそうだ。

ややぬるめの温度で、だからこそのぼせることなくじっくりと湯に浸かることができ、炭酸効果のおかげで体の芯からぽかぽかになった。




で、本題はお風呂から上がったあとのことだ。
受付横に掲示されていた記事が目に止まった。



「塩ヶ口鉱泉」
「明治時代、この炭酸泉は瓶詰めにされて『琴月堂の天然炭酸泉』の名で大阪方面に出荷されていました。」
「明治14年、ドイツ万国博覧会にこの水を出品したところ世界希有の銀泉なりと賞賛されました」



思わぬところで思わぬ出会い。
浴室では「飲用不可」と書いてあったけど、本当は飲めるんだろうか?


受付の人に聞いてみれば、

「微量のヒ素を含んでいることもあって保健所の許可が出ず、基本的に飲用はできない」
「明治の頃はその記事通り、飲用水としてボトリングして出荷していた。今もここから少し川を遡ったところに源泉があって、このラムネ銀泉はその源泉から引いた冷泉を湧かして使っている」
「飲むと、最初は金臭さが気になるが、その向こうにサイダーの香りと味が感じられる」

とのこと。



これは面白そうだ。
温泉の裏側に自由に温泉を汲める施設があったので、試飲してみよう。






知らなければぺろっと舐めて終わりにしていたと思う。
そうするとただ鉄臭さというか錆び臭さだけを感じる。


が、少し多めにごくりと飲んでみると、金属感よりも炭酸のシュワっとした刺激とラムネにも通じる香りを確かに感じた。
美味しいか不味いかで言えば、これは確実に「美味しい水」だ。

舌でなく、のどごしで味わってこその炭酸水ということか。





ちょっと思いついて、売店で売られていたラムネを買ってきた。
すぐに飲み干して瓶を空にして……






そしてラムネ源泉を注いでみると……





おお、確かにシュワシュワと泡が出ている。
色も無色透明。

明治時代には、これが天然炭酸水として飲まれていたんだ……!















この日はこの後も「炭酸」と遭遇し続けた。


川沿いで噴き上がっている炭酸の間欠泉を見つけたり————

河原の間欠泉




森の中にある冷たい野湯「酒谷の湯」で体ぽかぽか体験をしたり。
(酒谷の地名由来は、炭酸が湧いてるから?)





それで、自分の頭の中で何かがカチッとはまった気がした。






あれも炭酸。これも炭酸。
ということはつまり…………

そうか。
自分はこの旅に出る前、いやもっと前から気づかないうちに、たくさんの「天然炭酸水」と出会っていたんだ。
自分の旅は、炭酸に満ちていたんだ。



温泉というと、高い熱によって膨張した水が噴き出すものだと思っていたけれど、自分が出会った炭酸の温泉は冷たいものが多かった。

だから気づいた。

熱水に噴き出す性質があるように、炭酸水にも「噴き出す性質」がある。
だから、炭酸を含んだ水は温度が低くても湧出しがち。

炭酸を含む冷泉が多いのはきっと、そういうことなんだ。





池や沢などの湧水地に行くと、水の中からぷくぷく泡が湧いているのをみることがある。
今回、タンサニア……宝塚で見たのと同じように。

これまで「空気」としか思っていなかったけど、あれも多くの場合炭酸なのだろう。





炭酸は湧くよ どこにでも

旅をするとときどき、時間が逆行する感覚を抱くことがある。

旅先で見て、感じ、調べて、考える。
そんなプロセスの中で、過去に訪れた場所や得た情報が自分の中で再構築されて、


「ああ、あのときのあれはそういうことだったのか」


と新しい世界が広がる。
旅の再体験と言ってもいいかもしれない。



炭酸についてもそうだった。
炭酸について知り、考え、出会って体験を重ねたことで、自分のこれまでの旅が「天然炭酸水」に満ちていたことに今更ながら気づく。
自分はただこれまで、「そこにある炭酸水」を意識できていなかっただけだった。






「風雨来記」を追いかけた旅で巡った、北海道屈斜路湖の「コタンの湯」や「砂湯」。








2024年に巡った木部谷温泉の間欠泉。炭酸によって噴き出している。


2024年に入った津和野の野湯。正式には塩ヶ口鉱泉という炭酸塩泉だそうだ
















意識していなかっただけで、これまでも天然炭酸を楽しみまくっていたのだ。

今日の旅が、過去にもつながっていくのが面白い。












炭酸水という言葉を聞いて自分も含めて多くの人がイメージするのは、無味無臭(あるいはフレーバーのみ)のものだろう。

一方、自分が炭酸の旅を通して出会った炭酸泉は炭酸だけではなく、塩分だったり、鉄分だったり、硫黄だったりを含んだものばかりだった。




単一で純粋な炭酸だけの天然水——「単純炭酸水」も存在するのかな?という疑問を抱いた。
それはつまり、その源泉の地下には鉄や硫黄や塩分が含まれず、二酸化炭素だけが水に溶けている状態ということになる。

調べてみると、これもちゃんとあるのだそうだ。




主に九州に多いそうで、この記事の最初の方で触れた大分の長湯温泉の他、大分県くじゅう連山麓の「白水鉱泉」が有名らしい。
冷たい純粋炭酸水がたっぷりと湧いているのだとか。

地図をみると過去の旅の中で2回くらい近くを通りすぎていたことを知ってちょっと悔しいけれど、そのうちまた足を伸ばしてみよう。













日本最初の炭酸水は、京都に



最後に、地元「京都の炭酸水」について書いて記事を結ぼう。


日本で最古級といえる、1880年に「山城炭酸水」が販売されていた記録があるという。

山城とは旧山城国、つまり京都のことで、京都南部で湧出した天然炭酸水をボトリングして売り出したのだそうだ。
公的に販売の届け出を出した記録があることから存在は確かだが、あまり情報が残っておらず詳細は謎に包まれているらしい。

この源泉は今も存在する(自噴はしていない?)という話を聞いた。
また、当時のラベルを使った「笠置炭酸サイダー 」という商品も販売されているとか。

笠置には何度か訪れているが、炭酸水については知らなかった。

次に訪れるときは探してみようと思う。



岐阜の養老、菊水泉にも近いうちに再訪しよう。



それから、北海道にも天然の炭酸泉があるらしい。
その名も「ドラゴンウォーター」。
こちらもそのうち(ヒグマ対策はしっかりとして)伺いたい。



ひとまず今回の旅のレポートはここまで。








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