「物語」の見つけ方。~大岩神社と深草探訪~

京都が京都になる前の旅

旅ではじめての場所を訪れるとき、「予備知識が無い」場合と、「予備知識がある」場合とで、その場所の見え方や感じ方、あるいは楽しみ方の種類そのものが大きく変わってしまうことがある。


何も知らずに訪れれば自分の心から湧き上がる素直な感動を味わえる場所も、予備知識によって期待値を上げすぎるとガッカリポイントになってしまったり――

逆に、意識もせずに通り過ぎてしまいそうなどこにでもあるただの空き地でも、予備知識によって実は唯一無二のすばらしい場所だと気付くことだってある。



理想を言えば、知識「あり」と「なし」の両方の体験を味わうことができれば最高だがそれは無理なので、経験や勘を働かせて「ここは事前情報なしの方が素直に楽しめそう」とか、「ここは歴史や背景を知っておいた方がより楽しめそうだな」という具合にうまく使い分けることができればいいな、と思う。





今回の記事は、後者のほう。
「予備知識と目的を持っての探訪」にテーマを絞って、自分が感じたこと、見つけたものを掘り下げて書いていくつもりだ。



序:大岩神社の存在を知る




先日、京都市伏見区にある「大岩神社」に行ってきた。
全国の稲荷の総本山・伏見稲荷大社……のすぐ隣にある、「岩を神様として祭る謎多き神社」だ。







それなりに長く京都市に住んでいるが、この神社のことを知ったのはつい最近、YouTubeのとある「秘境・廃虚探訪系」のチャンネルだった。

神社好きやパワースポット好き、廃虚愛好家などの間で近年有名な場所らしい。

動画映像で見る限りでは奥深い緑に包まれた山奥のミステリアスな神社……といった印象だったが、所在地を確認すると、自分が幼少期に生まれ育った町、通っていた小学校の学区内でびっくりした。


地図を見れば、幼少期の約10年を過ごした当時の家から、たった2キロの距離にあって、急激に身近に感じてしまう。




このあたりは自然もそこそこ豊か(と言っても雑木林が少し残っている程度)だったので、小学生時代の自分は近所の山や小川へ、虫捕りやザリガニ捕りに走り回っていた。

そんな遊び場から目と鼻の先の距離に、こんなに面白そうなスポットがあったなんて。
もし子供時代に知っていたら、友達と集まって探検していたかもしれない。



当時の学区内には沼や池が多く、「ここには子供だけで行って遊んではいけないマップ」みたいなものが学校で配られていた記憶がある。

「神社」はその中では特に挙げられていなかったけれど、「かっぱ池」というのがあって、「池の前を子供だけで歩いていると河童が飛び出してきて引きずり込まれる」と言うウワサを子供心に本気で信じていたことを思い出す。
おそらく、子供を水辺に近づけないように保護者たちが作り出した安易なフィクションなのだろう。


大人になった今冷静に思い返せば、その池にはいつも釣り人がいたしカップルのボートもたくさん浮かんでいた。
どう考えてもかっぱが暮らしていける余地はないと思えるのだが、子供には子供の論理や世界観があった。

『きっと、子供だけで近寄ったときだけやばいのだ。大人に気付かれずに子供を引きずり込むのだ』と膨らませた空想心と畏怖をもって、その池の前を通るときにはいつもみんな、本気で全力疾走だった。




そんなことを思い返しつつ、実家(今は別の場所に引っ越している)に「大岩神社」のことを確認してみると、

「ああ、あの神社ね。夫婦で一度行ってみたことがあるけど、なんだかあんまり良い雰囲気じゃなかったなぁ。暗いし、ちょっとこわかった」


との返答が返ってきた。
自分達が知らなかっただけで、地元の大人にはけっこう知られていた場所のようだ。


ネットの評判ではさらにおおげさなことになっている。
「大岩神社」でGoogle検索すると、サジェスト(予測表示)には――――

google検索より引用



魔境だの、心霊だの、異界の入り口だの、ちょっと不穏なワードが並ぶ。



ネットでミステリアスな部分が強調される理由として、この大岩神社はもうかなり昔に廃神社として届け出が出されているらしく、管理する神職が不在なのだそうだ。

地域の氏子さんやボランティアの手によって定期的に境内の掃除はされているものの、大がかりな修繕などは行えないために、雨風で倒壊した鳥居などが仕方なく放置されている状態らしい。


その独特の雰囲気から、SNSやYouTubeなどで、ときたま話題になっているようだ。




神話と歴史の重なり合った時代

あらかじめ表明しておくと自分が今回この神社に興味を抱いたのは、「ミステリースポット」としてではなく、この大岩神社を含めた深草地域の「神話と歴史の境」に心惹かれたからだ。



リリさんと出会って以降、興味を抱いたものについて色々調べたり考えたり訪れたりする中で、「神話時代の日本」に強い興味を持つようになった。

ファンタジーとしての「神話」じゃなく「神話として語られている時代」……考古学的には『弥生時代』や『古墳時代』と呼ばれる時代の、後に『神様』と呼ばれる様になった人達が暮らした風景について考えるのが好きになったのだ。





たとえば、古くから『島根の出雲大社には平安時代以前に高さ48メートルの空中神殿が建っていた』という伝承があった。
神話においても、オオクニヌシが国を譲る条件として大和側に「空までそびえる高い建物を建てること」を挙げている。

これらは単なる言い伝えと言われていたが、平成になって出雲大社の境内の一部を発掘した際、巨大な柱を三本束ね合わせた巨大な柱の痕跡が複数発見された。


発掘跡
柱の大きさと人体の比較




これによって強度的に48メートルの高層建築も十分可能と分かり、「神話は現実だった」と話題になったのだ。



復元予想図/古代出雲歴史資料館




参考写真:出雲大社公式ホームページ



こうした、神話や言い伝えが考古学や自然科学的な「現代の発見」と符合する瞬間
そのアハ体験というか、ワクワク感が自分の性に合っているらしくたまらなく好きだ。





漢字の伝来のタイミングから、古墳時代にはすでに複数の歴史書があったと考えられているが、そのほとんどが政変、特に蘇我入鹿暗殺事件(乙巳の変)の際に焼失したとされる。

古事記や日本書紀は、かろうじて奈良時代まで残っていたいくつかの歴史書を底本にして編纂されたものだ(と本文内に書かれている)が、その編纂者がどれくらい昔のことまで正しく把握していたのか、どこが「正直な記録部分」で、どこが「政治的な忖度による後付け記述(特定の豪族の先祖がやたら活躍したりとか)」なのかを精査・判読するのは、人生を研究に捧げている専門家の間でさえ諸説あって一筋縄にいくものではない。



もちろん自分は専門家ではないので、いくぶんファジーに考えたい。

記紀で「オオクニヌシの国譲り」よりも以前を舞台に語られる神話の多くは、稲作や農耕、製鉄などを司る神がたくさん登場することから、年代的に、弥生時代~古墳時代の文化や出来事がモチーフとして多く含まれていると考えられる。
それ以前、イザナギ、イザナミの国生み神話などの中には一部、縄文時代の要素も残っているかもしれない。


文字記録が乏しい古代について考えるときは、その土地の「遺跡発掘物」や「地形」、「地質」、「近隣の神社の成り立ちや位置関係、氏子の分布」、「地名」など、様々な調査結果、客観的物証を神話伝承と照らし合わせることで、自分の中での論理性というか、整合性というか、物語としての解像度を高めていくことができる。

この「思考の遊び」がとても面白い。





古代京都のチート集団

伏見稲荷大社 四つ辻のチャート岩




「京都」という古都の成り立ちを考える上で非常に存在感の強い、神話と歴史の境目に立つ一族が存在する。


「秦氏」と呼ばれる、5~6世紀頃に大陸から日本に渡ってきたと言われる「技術者集団」だ。
専門は、土木事業・農業・養蚕・機織・鍛冶製鉄・酒造・情報・信仰――などなど多岐にわたる。

大陸からやって来たことは分かっているが、そもそもどこにルーツを持つ人達なのか、そもそも単一の民族なのかなど、正体は謎に包まれていてよく分かっていない。
(一応、平安時代の公式記録では古代中国、秦の始皇帝の子孫だと書かれているものの、研究者からは信憑性は低いと考えられている)



この秦氏は、同時代の他の渡来系氏族と比べても一線を画す、チートとも言えるほど膨大な知識と大陸最先端の高い技術、結束力・組織力をもって、人の住みづらい未開の土地だった京都盆地をわずか100~200年で「遷都候補地」へと大開発してしまった。

「平安時代」、ひいては現在に至る「京都」誕生の立役者なのだ。
彼らの「関与」した形跡は驚く程多い。



たとえば、伏見稲荷松尾大社、世界遺産の上賀茂・下鴨神社など、秦氏とその関連氏族が建てた神社は現在でも信仰が篤い。
また、三柱鳥居で知られる木嶋坐天照御魂神社や、全国的にも壱岐由来の月読神社、秦の始皇帝を祀る大酒神社(平安時代以前)など、古墳時代~奈良時代にミステリアスな神社を数多く建てている。

※上賀茂神社(賀茂氏)の神様は、松尾大社(秦氏)の神さまと下鴨神社(賀茂氏)の神さまとの間に生まれた子供。そして上賀茂神社の神の子孫が伏見稲荷を建てたとされている。このことから秦氏と賀茂氏を同族とする見方もある

伏見稲荷大社
松尾大社
木嶋坐天照御魂神社
月読神社





また、国宝彫刻第一号として登録されている「弥勒菩薩像」を蔵する西暦603年建立・京都最古の寺「広隆寺」も、秦氏の氏寺だ。
この寺は元々、聖徳太子の右腕だった秦河勝によって建てられたものと伝えられていて、現在でも聖徳太子を本尊としている。


有名なやつ





他にも、世界遺産・東寺や、全国に広がった八幡信仰比叡山日吉大社愛宕山信仰など、秦一族と深い関わりのある有名寺社は、挙げ始めればきりがないほどだ。



土地開発に関しては、先述したように京都盆地、特に現在の京都駅周辺あたりから嵐山あたりにかけての中央~西部地域を広範囲に開拓した。
現在、京都を代表する有名観光地となった嵐山・渡月橋近辺の景観も、元々は秦氏による保津川(現在の桂川)治水によって副次的に生まれたものだ。


秦氏が築いた景観




身近なところでは、現存する京野菜「九条ねぎ」は、秦氏がもたらしたものが1300年続いて今に至っている。
また、米を使ったお酒……「日本酒」の発展にも大きく関わったと言われ、秦氏の氏神である松尾大社は今も全国の酒造家の崇敬を集めている。




そんな秦氏の本拠地であった京都市西部には「太秦(うずまさ)」という地名が残る。
時代劇のロケ地で有名な「太秦映画村」のある場所だ。




太+秦で「うずまさ」というへんてこな読みをする理由は、ずば抜けた養蚕技術によって高品質な絹織物を、税としてうずたかく献上したことによって天皇から与えられた称号「禹豆麻佐(うずまさ)」を、秦一族の本拠地という意味の漢字「太秦」にあてたもの。


太秦地域には、彼らのものとされる大小様々な古墳が集中している。
開発でだいぶ失われたそうだが、現在でも地図を見ると古墳だらけだ。
京都市内には古墳が少ないので、余計にその集中っぷりが目立つ。

中には、石室がそのまま神社になっている古墳や、京都の街中にこんな大きな古墳?!と驚く程大きな規模の古墳も見られる。




写真は「蛇塚古墳」。

全長75メートルあった前方後円墳のうち、石室部分が映画村のすぐ近所の住宅街にそのまま残っている。
車とのサイズ感で分かる通りとても大きな石室で、奈良の石舞台古墳に匹敵する規模だ。


この古墳は、「大型古墳」が時代遅れの産物になりかけていた古墳時代終末期、7世紀頃の築造と推定されている。
先に述べた広隆寺が603年建立なので、この古墳は「お寺と同時期に建てられた」ことになる。
あるいは、広隆寺が「古墳時代に建てられた寺」ということもできる。


「お寺と古墳が同じ時代にあった」と聞くと違和感があるが、当時を生きていた人にとっては「古墳時代」とか「飛鳥時代」とかいう歴史区分はなかったわけで、太秦はまさに神話と歴史が共存した時代、遺跡と史跡のゆるやかな過渡期を感じられるスポットと言えるだろう。




そういえば、北陸の「白山」を開山した泰澄も、秦一族の生まれだったと言う説がある。

風雨来記4より 白山



北陸生まれの泰澄は、伏見稲荷の「稲荷山」で修行し、秦氏の本拠地・太秦の背後にそびえる「愛宕山」を西暦701~704年頃開山、「愛宕信仰」を創始したとされる。



その後、西暦717年に白山登頂に成功し、「白山信仰」を創始した。

白山も愛宕山も、同じように山の女神であるイザナミを仏の化身として祀る神仏習合の修験道の場として信仰されていく。

愛宕山と桂川




稲荷山と大岩山


そんな秦氏の一部が古墳時代に「深草」の土地に勢力を伸ばし多数の大型古墳を築き、やがて西暦711年頃に自分達の氏神として「伏見稲荷(当時は伊奈利と書いた)」を創建した。

だがもちろん、それよりずっと古くからその土地に暮らしていた人達がいた。
弥生時代以前からの、山そのものを神として、あるいは石や岩を神の依り代として祀っていた土着の人々や、いちはやく稲や開拓技術をもたらし、古墳を築いた豪族たちだ。



見方によっては秦氏は、それまでこの地域に暮らしていた地元民たちの神の山に、それを塗り替えるように、あるいは上書き更新するような形で自分達の氏神を祀る社を建てたとも言える。


それは、友好的、融和的なものだったのか。
それとも、侵略的なものだったのか。
一言では言い切れない心情的な、あるいは政治的な機微があったのか。

資料が残っていないのだから、詳しいことは分からない。




分からないが、想像をふくらませるための、ちょっと面白い話がある。





伏見稲荷を建てたと言われるのは秦氏だけではない。
荷田かだ氏」と呼ばれる一族もまた、稲荷の創始者とされている。

伏見稲荷内にある荷田氏を祭る社。隣には秦氏を祭る社が並ぶ。


秦氏の伊奈利信仰は、「先祖がもちを的にして遊んでいたらもちが鳥になって飛んでいった。食べ物を粗末にしたことを反省した子孫がその鳥が舞い降りた場所を伊奈利と呼んで祀るようになった」という、SNSで炎上しそうなばちあたり行為を起源としている。
一方、荷田氏は全く別の起源伝承を持っている。


昔から稲荷山に住み、昼は稲をもたらし夜は木々を刈った「光り輝く龍の顔を持つ山神」がいたという竜頭太伝承だ。
この山神を自分達の祖先として祀ったのが荷田氏の稲荷信仰らしい。



確かに、稲荷山には龍のモチーフが多い





秦氏と荷田氏の古墳時代以前の関係は公式記録がほぼないのでよく分からない。

秦氏のイナリ(伊奈利)と荷田氏のイナリ(稲荷)は元々別の神で、どこかの時代に合祀されたのだとする解釈もあるが、やはり詳しいことはよくわかっていない。

両者の関係はかなりデリケートなものだったのだろう。



なににしろ、ひとつの神社にふたつの全く違う起源が共存している、というのはなかなか不思議な感覚だ。



伏見稲荷大社の奥宮(山上にある神社)は、山頂付近にもともとあった古墳(円墳)をベースにしている。




ちなみに、元々秦氏の「伊奈利」が、現在伏見稲荷大社が建っている場所からは少し離れた地域で始まったんじゃないかと推定できる状況証拠がいくつかある。


ひとつは氏子区域。

普通、神社があればその近隣には、その神社を氏神(地域神)として先祖代々信奉する「氏子」と呼ばれる人達が多く住んでいるものだ。
氏神は基本的に世代を超えてずっと受け継がれていく。


京都の場合は、現代でも特定の神社が広大な氏子エリアを持っている。
特に秦氏の本拠地である松尾大社の範囲は別格だ。


現代での、京都市内の氏子分布、だいたいの目安。秦氏の松尾大社が強すぎる
松尾大社は範囲が広いので、場所によっては、川を船で渡って神輿がやってくる






ところが、伏見稲荷大社は全国的、いや世界的に有名なお社にも関わらず、近隣住人は稲荷ではなく、少し離れた場所にある「藤森神社」を氏神(地域神)としている。

「伏見稲荷の氏子は、地元である伏見にはいない」のだ。




では伏見稲荷大社の氏子はどこにいるのかというと、少し離れた京都盆地の中心部、九条、東寺や京都駅のあたりに分布している。


伏見稲荷の「稲荷祭」でお神輿が巡るのもここだ。
お祭りでお神輿を担ぐのも篤く奉納するのも、伏見区ではなく南区や下京区など離れた地域の住民なのだ。

現地まで距離が離れているため、稲荷大社から現地までを「お神輿がトラックに乗って移動する」という珍しい光景を見ることができる。


だいたいのイメージ




稲荷祭では、4月20日頃に伏見稲荷の神が乗ったお神輿をトラックに乗せて、大社を出発。

「伏見稲荷御旅所」に到着し、そこを拠点として、数日かけて氏子区域を巡幸。
5月3日に大社へ還る。



「御旅所」は神様の宿となる場所のため、その神社、氏子にとって非常に重要な土地が選ばれる。
そのため、御旅所のある京都駅周辺あたりこそが、秦氏の元々の稲荷信仰の本拠地(もちが鳥になって舞い降りた場所)だったのではないのかという説もある。


羅城門跡




稲荷の氏子区域は、京都駅の南あたりで同じ秦氏の氏神である松尾大社の氏子区域と隣接しているが、ちょうどここが平安京の正門(都の入り口)である「羅城門(羅生門)」にあたる。


都の入り口の「美味しい部分」が、見事に秦氏の勢力下と重なっているのが興味深い。





さらに面白いことに、毎年5月5日に行われる藤森祭では、藤森神社のお御輿が、伏見稲荷大社の境内に突入する場面がある。
祭りの御輿が、余所の神社の神域に入っていくというのはかなり珍しい。


これは本来は稲荷山の上にのみ建っていた稲荷社が、山の麓=藤森神社の土地を借りたから、だと言われている。
藤森神社側からすれば、伏見稲荷が建っている場所は貸してるだけで今も「ウチの土地」ということなのだろう。


どうも100年ほど前までは、藤森祭のお御輿が伏見稲荷境内に乗り込んだ際、藤森神社の氏子が「土地返せ!」と催促し、稲荷の氏子が「うちの神様は今お留守です」と受け流すという恒例のやりとりがあったそうだ。

この「土地問題」が起こったのは室町時代あたりのことらしいが、とはいえ、こうした土地と信仰に関するいざこざはいつの時代もどこの場所でも、色々なところであったんじゃないだろうか。



左が稲荷山、右が大岩山。写真の範囲はみんな藤森神社の氏子エリア





言われて昔を思い返してみると確かに、自分が生まれ育った家は稲荷山の麓(画像の真ん中ちょい左あたり)あたりだったにも関わらず、子供の頃からお稲荷さんにお参りした記憶は全然なかった。

両親の結婚式や自分の七五三も藤森神社でおこなったらしく、子供の頃の自分にとって「お祭り」といえば毎年5月5日の藤森祭だった。

町内や、学区内のひとたちにとっても、身近な神社といえば藤森神社。
深草の町では伏見稲荷信仰の雰囲気は全くといっていいほど感じなかった。

稲荷の町は学区が違うこともあって、「ちょっと遠いとなりまち」という印象。




当時の「稲荷山」関連で思い浮かぶのは、上級生が稲荷山で獲ったクワガタが三千円で売れたと自慢していたとか、稲荷山の池でスッポンを捕って商店街の魚屋に一万円で売った近所の中学生がいるとかいう話くらいだ。




初期の稲荷社の神域が、山の上にだけあったことは「稲荷参りとは山上にある三つの峰にある社を巡ること」と記述する記録や随筆などが残っているので確かだろう。


たとえば平安時代の清少納言は「スタート地点からハードな山登りで、苦しくて情けなくて泣けてくる、なんのために自分はこんなことやってるんだろう。今すれ違った、普段なら気にも止めない元気だけが取り柄の40過ぎのおばさんと、体を交換したくなってくる」と泣き言を書き連ねている。

※清少納言「枕草子『うらやましげなるもの』」






そんな稲荷山には現在でも、「秦一族が伏見稲荷を建てた以前」の信仰跡と思われる磐境いわさかが残っている。

「磐境」は神さまそのものではなく、神様が一時的に宿って人間と交流する場とでも言おうか、神社の原型のような古代の祭事場。

この磐境を元にしたお社、それが「大岩さん(大岩神社)」だ。




冒頭で述べた、深草・大岩山の「大岩神社」と同じ名前。


どちらも名前通り、大岩を神体として祀っている。
距離的にも両者は谷を挟んで2キロ弱の場所にあるので、もしかすると元々共通の一族によって信仰されていた聖地だったかもしれない。

関係あるのかないのか、近辺には「岩」や「石」の名前がついた神社や地名が多数残っている。


左の山域が伏見稲荷のある「稲荷山」。右の山域が「大岩山」。



以上とりとめなく書いてきたが、この地域は弥生時代から古墳時代、そして歴史時代への移り変わりを色濃く感じられる土地だと思う。

それを踏まえて、今回大岩神社を探訪するにあたっては、「この場所の古代の空気を想像する」をテーマにいくつかのスポットを巡ってみることに決めた。



今回巡ったエリア







ここからようやく今回の旅の記録となる。



深草弥生遺跡


この日は午前に小雨が降っていたため、雨が止んだ昼過ぎにのんびり出発した。

風雨来記4で知って使い始めた「360度カメラ」。
去年一年間入門モデルで経験を積み、今回アドバンスモデルを新調したので、その撮影練習も兼ねてのプチツーリングだ。




京都市伏見区深草。
小学校途中まで住んでいた土地なので、物心ついた頃から学校の連絡帳や年賀状など、住所として数え切れないほど書いて魂にこびりついた地名だ。

まさか長い時間を経た今になって、この場所にまた新たな意味を見出すことになるとは思ってもみなかった。人生はおもしろい。




なんの変哲もない住宅街の一画に、「深草弥生遺跡」の碑が建っている。
約2000年前、京都盆地で最初期の稲作の痕跡が、たくさんの耕作道具などの遺物とともに発見されたそうだ。
自分が小学生の頃、友達の家に遊びに行く際この道をよく通っていたはずだが、全く意識したこともなく、この碑の存在も知らなかった。



付近の住宅前や公園、道路脇等いたるところで「奉納・藤森祭 深草郷」ののぼりが飾ってあって、ここが藤森神社の氏子区域だということが分かる。
もしかしたら、このあたりで稲作を始めたひとたちが崇めたのが、藤森神社の原型となったかもしれない。





鳥居があって拝殿があって本殿があって……という「神社」という形式は、「仏教」「寺院」が輸入されて以降に形作られたものと言われる。
それ以前、岩や木など自然物を神の依り代として柱や縄で囲って祭祀場としていたようだ。


藤森神社は記録上は約1800年前、神功皇后の凱旋が起源という。
神話をそのまま鵜呑みにはできないとしても、2000年前の稲作跡が発見されている(稲作伝来=高度な道具や青銅器・鉄、大陸文化の流入)ことは事実なので、その頃の古代信仰が神社の大元になっている可能性は十分考えられる。

そう考えると、今は静かな普通の住宅街にもロマンが湧き上がってくる。





稲作はどこででもできる、というものではない。
弥生時代頃は特に、稲作に適した場所はかなり限られていた。


もともと縄文時代の一時期、環境変化の影響で日本列島近辺の海面が大きく上昇していたことがあった。
これを「縄文海進」と言う。

この時期の日本は最大で今より3メートル以上、地域によっては10メートル以上も海面が高くなったため、現在の東京や大阪などの大平野部は数百~数千年に渡って水浸しの状態で、縄文人たちは山の裾野などで生活を営んでいた。
古代の貝塚が平地には少なく、少し標高の高い場所に集中しているのはこれが理由だ。



その後気温の低下とともに海面が下がっていって、時間をかけて平野部の水は引いていったものの、山から流れ込んだ水などの影響で湖に変わることもあり、「平野水浸し」状態はその後も長く「歴史時代」に入るまで、あるいは場所によってはそれ以降も続いていた。


もっとも有名なのは江戸だろう。
「江戸」の名前通り、徳川家康が大開拓を始める前の東京は、水浸しの土地だった。




日本の古い記録において、日本列島のことを「秋津州あきつしま」と呼んだことや「トンボ」にたとえたこと、国名を「豊葦原中津国」と言ったという記述があること、弥生時代の土器からカエルやアメンボ、ミズカマキリ、カメなど様々な水生動物の絵が描かれたものが見つかっていることなどから、古代日本人にとって、「自分達の国土は湿地である」というイメージが強かったと考えられる。

だからこそ、全く環境の違う「山」という地形を、別世界として特別視したのかもしれない。




秦一族が入ってくるまでの京都盆地も湿地だらけ、辺境で住みにくい、ぱっとしない土地だった。

周囲を山に囲まれ、地下に琵琶湖と同じくらいの量の地下水脈があると言われるほど湧水に恵まれ「過ぎて」いるせいで、耕作可能地が少ない。
おまけに、狭い土地に大きな川が三本も流れ込んでいるので、大雨が降るたびにしばしば洪水した。


古代の豪族や大和王権にとってもあまり魅力的ではなかったようで、弥生時代から古墳時代初期頃まで、奈良や大阪、滋賀、岐阜、あるいは同じ京都の北部丹後地域などと比べても、築かれた大型遺跡の数が明らかに少ない。



そんな京都盆地の中で、早くから大規模な稲作が始まったこの「深草」はかなり重要な場所だっただろう。


古くは、不加久佐郷と書いた。
京都やましろ滋賀おうみ奈良やまと大阪なんばを繋ぐ」位置にあるので、古代の交通の要衝でもあったと考えられる。

深草弥生遺跡のある位置は、盆地の中で比較的早く「水が引いた」、稲作に適した土地だったのかもしれない。

参考:古代伏見について:京都市のページ






余談だが、深草弥生遺跡の所在地である深草西浦町の隣に、深草キトロ町という地名がある。

当時仲の良かった友達が住んでいた場所で、年賀状で住所を書いたこともあるのでよく覚えていた。
今思えばあきらかに不思議な町名だ。
キトロってどういう意味だろう。


今回訪れるにあたって調べてみたが、どうもよくわからないらしい。
深草は古い記録では不加久佐と表記されていたと書いたが、キトロ町は記録上最初からカタカナでキトロと表記されていたそうだ。

深草にはキトロ町以外にも、ヲカヤ町、ケナサ町、ススハキ町、フケノ内町、フチ町など、カタカナ表記の地名が多くある。


古代からずっとそうらしい。
なぜカタカナのまま残っていたか、漢字があてられなかったかはよくわかっておらず、真実は謎のままだそうだ。
色々想像が膨らむが、今回はこのあたりにしておこう。




次はここから1キロほどのところにある、藤森神社へ移動することにした。




藤森神社


藤森神社は、いかにも「地域に愛されている神社」といった感じの、開放感があって雰囲気の良い、落ち着いた神社だった。
境内で散歩したり、自転車で行き交う人も多い。

自分は小学校高学年のときに別の土地に引っ越したため、ほとんど30年ごしで訪れたことになる。
境内の様子は感慨深い……とは言えないくらい、まったく記憶に残っていなかった。

でも、とても良い神社だと思った。




神社の社伝によれば、203年に戦から帰った神功皇后がこの地に旗をたてたことを起源としているらしい。



本殿横にあるこの小さな「御旗塚」が、元々の神社の中心だったのかもしれない。


そばには、清浄な湧き水が湧き出していて、近所の人が入れ替わり立ち替わりに水を汲みに来ていた。

「伏見」の地名は元々「伏水」で、そこら中から伏流水が湧き出ることが語源なのだ――などと小学校の郷土学習の授業で習ったことをふと思い出す。

伏見のフシ、藤森のフジ、不二の水のフジ。




自分にとっては、両親が結婚式を挙げ、七五三にも参った(らしい)、自分の知らないところでご縁のある場所、藤森神社。
記憶にはほとんどないものの……



ただ、小学校の頃には年に一度、藤森神社で行われるこどもの日のお祭りに来るのが楽しみだったことだけはよく覚えている。
ここは、5月5日こどもの日にかぶとを飾る風習の発祥の場所で、神輿や流鏑馬などの神事の他、屋台がたち並んでとてもにぎやかになるのだ。



その祭りについては、ネガティブな思い出もある。

小学校低学年くらいのとき、親に手をつながれて祭りの人の波の中を歩いていると、前から足早に進んでくるおじさんとぶつかりそうになった。
それは知っている顔で、金魚すくいの屋台のおじさんだった。

子供心に藤森神社の祭りは毎年楽しみにしていて、金魚すくいと言えばこのおじさん、と年に一回の再会にもかかわらず、ちゃんと顔を覚えていた。
ぶつかったわけでもないので「あ、いつものおじさんだ」と自分は嬉しく思ったんだけど、おじさんはこちらに目を合わせることもなく、邪魔だと大声で怒鳴って去っていった。


あれは子供心にとても傷ついたことを覚えている。
単に、怒鳴られたことが、ではないと思う。

なんだろう……自分にとっては顔見知りなのに、おじさんにとってはそうじゃなかったことや、あるいは好意的な気持ちを裏切られたこと。
優しいと思っていた人が実は違って、祭りを楽しんでいる幼い子供に怒鳴るような人だった……、いろんな要素が合わさって、総合的にショックだったのかもしれない。



三つ子の魂百までと言う通り、それからはすっかりお祭りの屋台が苦手になってしまった。
大人になった今でもなんとなくお祭りの屋台で何か食べたり買ったり、お金を使いたくならないのは、幼児時代のその記憶に起因しているのかもしれない。








藤森神社の本殿の後ろに「大将軍社」という社を見つけた。



大将軍社というのは、平安京を作る時に、方位を司る陰陽道の神さま「大将軍」東西南北に置いて都を守護させたもの。

だから、本来祭神は文字通り「大将軍」のはずだが、神仏習合の流れの中で牛頭天王になっていたり、逆に明治以降の神仏分離でスサノオなど神道の神に変更されたりして、「大将軍」という名前だけが残っている場合が多い。


ここの大将軍社に現在祀られているのが「イワナガヒメ」というのがとても興味深い。


イワナガヒメは、日本神話の中で、天皇家の祖であるニニギノミコトの結婚話で登場した女神だ。
ニニギノミコトに対して、山の神は自分の娘ふたりを一緒に嫁に出したのだが、醜いからという理由でイワナガヒメだけが送り返された。

イワナガヒメは、岩のごとく永遠の命を司る女神。
ニニギノミコト、つまり大和王権側がそれをあえて「送り返した=排除」したというのは、見方を変えれば「素朴な岩石信仰への否定」あるいは「岩石信仰に関わり深い勢力との決別」とも捉えられる。



この藤森神社のすぐ近くには「大岩山」、そこにはまさに岩を神体として祭る大岩神社がある。
そんな場所にイワナガヒメが祭られているというのは、なかなか示唆に富んでいる様に思う。

大将軍社のイワナガヒメと、大岩山の大岩神社。
はたして何か関係あったのだろうか。





そんなことを考えつつ、いよいよ大岩神社を訪れてみよう。


大岩神社






コメント

タイトルとURLをコピーしました