【風雨来記4感想】それでも、いつか必ず別れはくる。

母里ちあり

今回の記事のまとめ

  • 「終わらないものはない」はシリーズで描かれ続けてきたテーマのひとつ
  • 風雨来記4の時間軸は現実と同じだから、そのテーマをより強く感じる
  • 二周目エンドは「ハッピーエンド」ではなく、
    いつか、「ゴール」の待つ「スタート」
  • 人生には限りがあるからこそ、今日を生きることへの熱が生まれる



隠れた名スポット 風雨来記4/2021 Nippon Ichi Software, inc./FOG



「旅の中での出会いと別れ」を描く風雨来記シリーズ。
そのテーマに密接に関わるモチーフのひとつに、「時の流れの無常さ」がある。

(なにせシリーズ一作目のメインヒロインの名前が「時坂樹」だ)
「出会いと別れ」は、「生と死」にもたとえられて、何度も何度も、語られ続けて来た。

最新作の風雨来記4では、日本の真ん中――岐阜と言う土地柄のためか、寺社、ダム、酷道、古橋、山、廃駅、遺跡などを通して、特にその要素を強く描かれているように感じた。



諸行無常。
終わらないものはない。

よいことも悪いことも、世の中のすべては、常に変わり続けていく。
流れ、過ぎた時は二度とやってはこない。

下呂温泉の噴泉池で、水着の彼女と思い出を作ることができたのはすでに、過去の話なのだ。




2022年8月追記

噴泉池 photo:旅想




■主に「風雨来記4ちあり編」について書きます。
■風雨来記4各ストーリーのネタバレ有り。
■「初代風雨来記」「時坂樹」について一部触れています。
■「自分はこう考えたよ」という、個人的な感想・考察記録です。
■ 記事内で、ゲーム内スクリーンショットを権利元様を表記した上で引用しています。

■ 特に記載のないイラストは、投稿者(ねもと)による非公式の二次創作です。

by松尾芭蕉 風雨来記4/2021 Nippon Ichi Software, inc./FOG



変わらないものはない

変わらないものはない。


たとえば、日陽編。

父親との突然の死別」が、旅の動機と密接に関わりのある柚原日陽の物語では、「明日ありと 思う心の仇桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは」という親鸞聖人の言葉によって、テーマがはっきりと言語化されている。

明日やろう、いつかやろうと思っていたら、明日を迎える前にその機会は永遠に失われることもある。
それは、親孝行であったり、移住への覚悟だったり、あるいは告白であったりという形で表現されていた。
作中で結局理由が語られないままだった、キャンプの夜の「日陽のひどく青白い顔色」の描写は、あるいはそうした明日への心理的不安をあらわした演出でもあったのだろうか。


日陽が、飛騨の旅を経て自分自身で出した「仕事を辞める」という答えは、ただ状況に任せて「変わっていく」だけではなく、自分の意志で、能動的に「変えていく」ことだってできる、という彼女の強さの象徴だ。




変わらないものはない。


垂編においては、全編通して訪れる遺跡スポットやそこに残る伝承の数々が、まさに万物は栄え、滅び、変わり続けていくというテーマの掘り下げでもある。

多くの人を救う公共事業。治水のために命を失った人々。
コンビニよりも多い古墳。古墳は、かつて栄えた有力者の「お墓」だ。

後半、飛騨でのエピソードにおいては特に顕著で、一夜にして町すべてが土に帰った帰雲城もそうだし、崩れかけた、誰を埋葬した場所かも分からないかうと洞古墳を前に、「草木の姿まで含めれば全く同じ風景は二度とない」と物のありようの儚さに気付いたしづ自身が、「この瞬間の自分とこの場所の写真を撮って欲しい」と主人公に願うシーン。

岐阜で出会った当初は写真を撮られることを渋り、二周目エンドへ至る条件のひとつが「治水神社では彼女の望み通り、彼女を撮らない」であった彼女。
同じく二周目エンドへの条件として、「かうと洞古墳では彼女の望み通り、彼女を撮る」であること。

しづ自身の変化、成長があらわれていて、とても印象的だった。


風雨来記の主人公が写真を撮る意味、ルポルタージュを行う意味。
風雨来記の「記」の部分を、伝承を繋いでいく存在としての側面で掘り下げた、とても意欲的なシナリオだった。

やや横道にそれるが、大学院の研究仲間視点でみれば、岐阜に来るまでは自己主張せず、内気で声も体も小さいけど謎に行動力はある、就活に失敗した人つきあい苦手なめがねっ子が、わずか一ヶ月ちょっとの間に、子供みたいな笑顔で何にでも興味を示して無邪気におしゃべりする、行動力の塊の伝承オタクボクっ子(二輪免許取得中)へと変貌※したわけだ。
みんな、「諸行無常ってレベルじゃねえぞ」と驚嘆したんじゃないだろうか。

※実際は、後者が地だったのはご存じの通り。好奇心・行動力旺盛なのは、ずっと隠せなかったしづの本質





変わらないものはない。


リリについては、まずはそのファッション。

目元うさぎメイクなリリ 風雨来記4/2021 Nippon Ichi Software, inc./FOG



前髪の編み込みもうさぎメイク(目元のアイシャドウの下側、高め位置のチーク)も、風雨来記1の頃には(少なくとも一般的では)なかったもの。
手と足の指先を華やかに彩るジェルネイルも、やはり、風雨来記1当時には日本に入ってきてさえいなかった。(現在主流のソフトジェルネイルの普及は2002年以降)

シルエットを印象づける頭の大きめリボンは、2022年、今まさに流行していたりする。

ファッションは、まさに「その時代」「その社会」ごとの「はやり・すたり」を象徴するものであり、
同時に、その人の「その時の年齢」や「その時の立場・属性」、「その時の心境」をも象徴するものと言える。

リリが岐阜の夏に見せてくれたコーディネートは、その時限り。
20歳の夏のリリと、21歳の夏のリリのよそおいは、決して同じではないのだ。



ストーリーを見ると、過去の記事でも語ったように、最初のエンディングでは「昨日は先延ばし、今日は厳しい条件をつけて」「私は最後まで逃げちゃった」という独白とともに、リリ自身のけじめとしての「別れ」が待っている。

勇気が足りなかったと言いつつその上で、「昨日の私は昨日の私。今日の私がいつでも最高の私」「キミはそのままでいい。振り返ればいつか自分だけの道になってるよ」と言い切り、緩やかに変わり続ける明日を信じて、風のように笑顔で別れられるのが、リリの強さだ。

風雨来記4/2021 Nippon Ichi Software, inc./FOG







また、馬籠での「リリさんと別れと」という記事では、主人公が「人が生きている限り、いつか必ず訪れる永遠の別れ」についても触れている。

明日来るかもしれないし、何十年先かもしれない。
長く連れ添った誰かとの、その最期の別れの時に、どんな顔で別れるのが理想か、という「覚悟」にも通じる記事だ。
(と、自分は解釈している)



一人旅編については、徳山ダム編などは、まさに諸行無常を直球で描くシナリオだったし、バッドエンド――主人公自身が「明日は明日の風が吹く」と記事の更新を後回しにし続けた結果取り返しのつかないことになるエンドも、同様のテーマをあらわしたもの、と言う見方もできるかもしれない。

記事を書くのを後回しにし続けると… 風雨来記4/2021 Nippon Ichi Software, inc./FOG



元々、シナリオ以前に風雨来記シリーズが「実写」にこだわり続けていること自体、「変わらないものはない」というテーマを体現しているとも言える。

ゲームの中に収められた風景、場所は、「撮影されたその瞬間」のもの。
すべては「もう現実には存在しない(かもしれない)景色」だ。



実際、初代風雨来記では、作中で主人公が乗って北海道上陸を果たした釧路行きフェリーが、ゲームが発売した時点ですでに廃止されていた。(取材した年の翌年に廃止、ゲーム発売はさらにその翌年だった)


4においては、冒頭で書いた噴泉池の足湯化もそうだし、作中で工事中だった美濃橋も今はもう開通している。

キングオブ酷道はいつまで実在するだろうか。五月橋や旅足橋は。
ずっとあのままというわけではないのは確かだ。


美濃橋。現在は開通している。 風雨来記4/2021 Nippon Ichi Software, inc./FOG



2022年8月追記

開通した美濃橋 photo:旅想





4で描かれたスポットの数%、もしかしたらそれ以上が、すでに大なり小なり撮影当時とは姿を変えているかもしれない。
20年以上前の初代風雨来記や、撮影が10年近く前の3のスポットは、言わずもがなだ。


その間に、利用禁止になる秘湯もあれば、十数年の時を経て利用再開へと動いている秘湯もある。


諸行無常とは、決して「無情」ではない。「無常」だ。

変わることはそのまま、単に「変わること」、それ以上でも以下でもなく、変わる向きに本来、良い方向、悪い方向などもない。


そこにどんな意味を見いだすかは、いつでもその人の気持ち次第だ。




同じ時間を刻んでいる


風雨来記の世界は、現実世界と同じ時間を刻んでいる。

今作、風雨来記4によって、明確に「時間軸が重なった」。

具体的な年代をあえて明言しないとか、過去作からの時間経過もうまくぼかす…など、いくらでもやりようがあっただろうし、3では実際、微妙にぼかされていたように思うけれど、4では、あらためてはっきりと、時の流れをシナリオ内で、設定、明示した。

2004年を舞台にした風雨来記2で当時12歳だった少女が、28歳という年齢を明示した上で再登場したのはその典型だろう。



現実時間と作中時間が同期したわけだ。

旅の終わりに夏の終わりが描写されるので、時期は8月だろうか。
物語の舞台は、2021年の8月と考えられる。

(カレンダーの曜日的には「2022年8月」に符合するのだが、日陽の「今年で1221年からちょうど800年」というセリフから鑑みれば、作中年は「2021年8月」と考えるのが自然だろう)※




発売年と作中年が同期したのはシリーズ初。 風雨来記4/2021 Nippon Ichi Software, inc./FOG
風雨来記4/2021 Nippon Ichi Software, inc./FOG







※2022年9月追記 
2022年8月の岐阜を10日ほど旅しましたが、風雨来記4作中の風景は6月頃のものが多いんじゃないか、と感じました。ハツシモ農家さん、田植えしてるし……

また、リリ編には「今月の初めにリリと出会った」という発言がある。
國田家の芝桜の咲き方や、稲の大きくなっていない坂折棚田は、6月くらいの風景に感じられる。
リリ編に限っては、初夏の物語とも捉えられるんじゃないかと最近思う……

そういうわけで、「風雨来記4の作中季節は○月だ」という断定は一旦撤回します。



8月中旬の國田家の芝桜 photo:旅想
8月中旬の坂折棚田 photo:旅想
新緑の木々や、まだ伸びていない雑草、成長途中の稲穂 風雨来記4/2021 Nippon Ichi Software, inc./FOG

※2022年9月追記はここまで









風雨来記1から継続登場しているキャラクターとしては、主人公・榊千尋の姉もいる。

彼女は2000年時点で22歳よりは上(1994年には大型バイクを乗り回していた=当時は16から限定解除=大型に乗れた)~人生経験の豊富さから、おそらく20代後半だったと考えられるので、現在は45歳~50歳前後、だろうか。





時計の針を進めつづけること。
これは斬新というよりは、すごく強烈で思い切った手法だったと思う。

それは、人生を旅とたとえ続けた風雨来記において、言ってしまえば、逃れようがない「別れ」――「死別」と必ず向き合うことにつながるからだ。






長く続く人気作品の中には、「終わらないコンテンツ」が少なくない。


現在、SNSで人気のソーシャルゲームで描かれる世界観はたいてい、季節だけが現実と同じ様に巡り、「年月の流れ」は意図的に無視されている。

ソシャゲは、一般的な家庭用ゲームと違い、最初から物語が完結しているわけではなく、ストーリーが後から後から更新され続けていき、プレイヤーは自分の生活の一部としてゲームにログインし続け、その世界を見続けていく、という形式だ。
キャラクターはストーリーの経過に伴って精神的成長をするし、記憶は重ねられていくが、一切加齢はしない。
サービスが5年続いても、キャラクターは同じ年齢のままというのが通例だ。



こういうメタ的なループは、いにしえより「サザエさん時空」という言葉もあるほどに、ある種伝統的な手法だ。

サザエさん、ドラえもん、アンパンマン、しんちゃん、あるいは「水戸黄門」のような時代劇も同様だろう、そうした「国民的」と冠されるような長く親しまれる作品には、多かれ少なかれ、永遠性……「変わらないこと」と「終わらないこと」が保証されてきた。


これは、多くの「視聴者」が長寿番組に対して無意識に求めているものを、象徴しているようにも思える。

時計の針が進んで欲しくない、変化しないで欲しいという、人間の「大人」――成熟し、肉体的にはこれから老化していく存在――が感じる、生物としての深層願望。

変わらない日常、終わらない日常。お約束の安心感。
いつまでも、若く、元気で、生きたい。

自分がそれは叶わないと理解するからこそ、「終わらない物語」に、安らぎを抱くのだと思う。
自分が大人になっても、子供だったあの頃と何も変わらない、いつまでも続く物語の中の世界。






むかしむかしの大昔から、ハッピーエンドの物語の締めには、こんな便利な決まり文句がある。

「いつまでも、いつまでも、幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし」

邪推の余地がない程に幸福な永遠性を時を超えて保証する、究極のパワーワードだ。



繰り返しになるが、そうした永遠性――現実とは切り離されて、不変で、いつまでも続いていく世界観というのはきっと、人々が創作に求める原点のひとつなんじゃないかと思う。
それこそ、神話の時代から。


現実にないものを描ける、見られるのが創作の魅力であるならば、終わらない世界、永遠につづく日常は、その最高の題材のひとつと言えるだろう。



自分もこれまでずっと、そういう永遠性を好んでいた。
創作だからこそ、物語だからこそ、そこには無限があってほしい、と。
愛すべき登場人物たちに、永遠に「めでたしめでたし」でいてほしい、と。



物語を終わらせたくなくて、最終回を読まないままだった漫画や、ラスボス前でセーブデータが止まったままのゲームも、少なくない。

今もそこは基本的に変わっていない。
ただ、



そんな自分が、これほどまでに風雨来記4に感銘を受けたのは、それと全く真逆の要素、はっきりと描かれた「時間の無常さ」――

要するに、「終わらないものはない」というテーマを突きつけられたからだ。




風雨来記4には二周目以降限定のエンディングがある。
それは、出会ったヒロインと、これからも共に旅を続ける、というもの。

一見ハッピーエンドにも見えるこの追加エンディングだが、自分にとっては、これまでの風雨来記で描かれ続けて来た数々の「出会いと別れのエンド」とは、別角度から、強烈に心をえぐるものだった。

風雨来記4の1周目エンド――「別れ」が、脳を揺さぶるあごへの強烈なストレートとするなら、2周目エンドは、死角からもろに入って内臓をシェイク、後から効いてくるボディブローのような。


なぜなら……「別れ」なら、どんなに小さな確率であっても、また再び一緒に旅をできる可能性はある。

「別れても、お互いが立ち止まることなく、進み続けていればいつかまた道は交差するかもしれない」は、初代風雨来記から掲げられていた、制作者からユーザーへのあたたかなメッセージだ。

前へ進み続けている限り、心の大切な場所で、思い出は美しく、ほろ苦く、やがて優しく、残り続ける。
別れは、次の可能性への希望でもあった。

実際、今作のストーリーでは、日陽編及びしづ編において、別れて一人になった主人公が、お互い進み続けていれば、またいつか、会う日も来るかもだろうと独白している。



だが、「時の流れ」というベクトルが作中にも加えられた瞬間、ただじっと感傷に浸っているだけではいられなくなる。
時間が進み続けるその旅路に、隠しステータスとして、「寿命」というタイムリミットが設定されているということに、向き合わざるを得なくなるからだ。



2001年の風雨来記1の発売から、現実では20年。
風雨来記の世界の中でも、ほぼ同じ時間が流れていた。

時が、現実とリンクしている。
それが意味することはつまり、

現実と同じ速度で、彼も、彼女も、老いていき、そしていつかは死(=別れ)が待っている。

過去作に何名かいた、ある意味風雨来記の象徴とも言える「永遠性を持つヒロイン」のような存在が、4には一人もいないのは、この諸行無常というテーマを、よりはっきりと伝えるためなのだろう。


ここから20年後くらいならともかく、100年たてば今作の登場人物は誰一人として生きていない。
そしてそれは今、こうやって書いている自分も、現実に今生きている全世界ほぼすべての人も、時間の前に等しく同様なのだ。



最高の場所


もう少し過去作の具体的な話をするが、風雨来記という作品の「最高の一枚を求める旅」の原点には、「心から結ばれた理想の夫婦の死別」(1主人公の両親)があった。

たとえどんなに縁深く、心から理解し合った最高の二人であっても、「死」からは逃れられない。
どちらかが必ず、先に死ぬ。
そこでできることがあるとするなら、それは、どんな風にその別れに向き合うか。

これは、風雨来記の根っこにある考え方だ。



「20歳の若さで、実体験によってそれを身をもって思い知り、天涯孤独となった主人公が、それでも旅に答えを求めて北海道を訪れる」というのが、風雨来記1の物語の導入(スタートライン)だった。


風雨来記1にはいくつかの個別シナリオがあるが、特に「夫婦」――「一度結ばれたふたり」の「永遠の別れ」について、多層的に掘り下げられているのが、森岡由美編だ。

ちなみに、森岡由美は、風雨来記の元となった「みちのく秘湯恋物語」から登場するキャラクターでもある。

先立つ妻を、見送った夫の言葉「またな」 風雨来記 / Nippon Ichi Software, inc./FOG
風雨来記 / Nippon Ichi Software, inc./FOG
風雨来記 / Nippon Ichi Software, inc./FOG
風雨来記 / Nippon Ichi Software, inc./FOG
風雨来記 / Nippon Ichi Software, inc./FOG
風雨来記 / Nippon Ichi Software, inc./FOG


主人公が10にも満たない頃に母親は亡くなり、高校一年生の時には父親も事故で亡くなった。
そしてその一年後のクリスマスの日に、両親よりも長い時間を一緒に過ごしてきた親友であり、これから恋人に、そして生涯の伴侶となるはずだった唯一の相手まで失った。

また、ヒロインの森岡由美も、前作「みちのく」に初登場した時にはすでに恋人を失っていた。
自分の価値観を大きく変えてくれた、婿入りして家業を継いでくれる約束もした相手で、婚約指輪を渡された矢先に癌が発覚、帰らぬ人となっている。



そんな過去作を踏まえて、だからこそ、風雨来記4には「ヒロインとの二人旅エンド」が設定されたんじゃないか、と個人的に思っている。

作中でリリが言ったように、「結ばれること」は、ゴールではなく次の「長い旅」のスタート地点だから。

それはこれまでのシリーズでずっと描かれ続けて来た「短い旅の中での出会いと別れ」にとどまらない、「人生という長い旅を通して、いつか必ずやってくる別れへのスタート地点」だ。




人によっては、4の二人旅エンディングについては、これまでのお約束を破った、純粋に幸せな結末、と見る方もいたかもしれない。めでたし、めでたし、と。
もちろんそれもひとつの意見だ。
そうした人には、今回の記事の意見は受け入れられない、悲観的過ぎるものと捉えられるかもしれない。

だから、これから書くことは、考察とか解説ではなく、あくまでも、いち個人の感想だと思ってほしい。



自分は、4の二人旅エンドは、シリーズ通してはじめて、

ハッピーになったぶんだけ積み重なる「いつか来る人生をかけた別れ」の切なさを内包した、風雨来記の根幹テーマを描いたエンディング

だと、感じた。





名文。 風雨来記4/2021 Nippon Ichi Software, inc./FOG






一ヶ月間ずっと没頭して、ついに風雨来記4のシナリオをすべてクリアしたとき――

最後の最後、ちあり編の橿森神社でのエンディングを迎えられたとき、最高の笑顔で岐阜を旅立つふたりを見届けながら、自分も自然と笑顔になって、多幸感に満ちていて、

それなのに、路のつづきを奏でるエンディング曲を聴きながら、ふと、これまで感じたことのないような喪失感が、そっと広がった。
? なんでだろう?



数日間たっても、それはじわじわ、積み重なり続けた。

なんであんなにハッピーなエンドなのに、自分はこんなに引きずっているんだと、その理由がずっと解らなかった。

考えて、考えて、あるとき、ふっと、気付いた。



あぁ、そうか。
これからもっともっと仲良くなって、紆余曲折ありながらも幸せで楽しい楽しい旅がどんなに、長く長く続いたとしても、それでもいつか、どれだけ長くても何十年か先には必ず、別れが待っている。

そこで、自分にとっての風雨来記4の評価が決定したように思う。

終わらないものはない。


ああ…、これは。
確かに、これは「風雨来記」だ。





※風雨来記1ネタバレ
時坂樹が、「別れ」を選択した理由を、20年ごしにはじめて理解できた気がした。
樹自身が望めば、彼女は歳をとらないままで相馬轍が死ぬまでの時間を一緒に過ごすことはできた。
でも、轍の寿命の後、樹は別れの哀しみを永遠に背負って、無限の時をいつまでも生き続けることになる。
そんなのは嫌だ、と涙をこぼした彼女の気持ち。


死は哀しいものだから、多くの人間がぼんやりと永遠を願ってしまうけれど、
「愛する人を残して自分だけが永遠に死なない不老不死」を望める人間がはたして一体どれくらいいるだろうか。
少なくとも自分は、無理だと思った。







これまで、「実写とイラストの融合」という形で、現実と物語を視覚的に結んで、「本当に旅に出たような」「自分も旅に出たくなる」気持ちにさせてくれた、風雨来記という作品。
そこにもうひとつ、「時間の流れのリンク」という新しい軸を導入することで、創作世界(二次元)と現実世界(三次元)をさらに強く紐付けてしまった。



かつて胸をかきむしるような焦燥感にかられ北海道へ旅立った、風雨来記1から受けた感情とはまた違う、なんというか……
今この瞬間を生きる理由、みたいな観念を大きく揺さぶられてしまって、いてもたってもいられない、何かせずにはいられないくらいに強いエネルギーが湧いてきた。

何十年か先の別れを考えるなら、自分だって同じ。
生きている限り、十年後、一年後、あるいは明日、同じ様に生きている保証なんてない。

さすがに一分先を考えながら生きるのは窮屈すぎるけれど、たとえば明日、事故や病気で自分は生きていないかもしれない、と言う可能性をほんの少しでも意識すると、じゃあいまこの瞬間って、めちゃくちゃ貴重で大切に使うべき時間じゃないか?と実感をともなって思えてくる。

今日、一日一日を、無駄にしてる暇なんてないぞ…と。




そう考えて、自分が最初にやったことが、単純なことだけど、掃除だった。
断捨離というやつだ。

これは死ぬまでに本当に使うのか?要るのか、と自分に問いかけてみると、思いのほか処分が捗った。
一生使わなそう、と思ってしまったものに関しては、さすがに執着もなくなる。

物を捨てるのは苦手な性分で、空き箱や古い記念品など貯める一方だったのが、処分が少し、得意になったように思う。





あらためて、自分がこんなブログを作ってまで、「母里ちあり」を語ることに夢中になってしまうのは、彼女が、不変でも、永遠でもないから、なんだと思う。

「時間軸」がなかったら、ゲームが終わった時点で20歳のリリとのハッピーな思い出だけが永遠に残るから、わざわざ自分の「今」の感情を、文やイラストで表現し続けようとは思わなかった。
むしろ触れない方がいい。終わった物語は、めでたしめでたし、でいいのだ。


最初の頃は、文にしろイラストにしろ、リリについて書いたり描いたことを、ネットに公開することに対して少なからず抵抗があったくらいだ。
本当に感動したこと、大切なことは、自分の心の中だけにしまっておきたいと思っていたからだ。




けれど、20歳のリリと出会えたのはあの夏だけ。
同じ夏は二度とやってこない。

そう考えると今この瞬間がものすごく尊く感じて、何かを表現したい、この瞬間を書き留めたいと強く思った。


たとえば5年後に、20歳の母里ちありのイラストを描いたら、それは「現在25歳の母里ちありが20歳だった頃の姿を描いたイラスト」だ。
少なくとも、自分の中ではそういう認識になってしまう。
だから、「今」の彼女を描きたいなら、今やるしかない。




こんなにも夢中になってしまった「母里ちあり」について、まだまだ、もっともっと考えてみたい。
ひとつでもたくさん、その瞬間その瞬間、「今」の自分の感情を、表現にあらわしてみたい。


そんな思いがずっと、湧き上がってきてやまない。




近況

ここからは個人的な記録というか、自分用の覚え書きを兼ねて、書き残しておく。
直接的には風雨来記4とはあまり関係のない部分なので、興味のない人は、ここまでで。






リリさんについてもっともっと考えたい。
表現もたくさんしたい。
とはいえ仕事もあるし、自由な時間が不足気味。


もっと時間が欲しい。
そのために、変えたこと、変わったこと、やったこと。


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