33年後の自分へ
・朝5時に到着しよう
・サングラスを用意しよう
・
・
・
33年に一度。
風雨来記4をやり込んだ人ならこのキーワードを聞いてピンと来る……かもしれない。
33年に一度だけ、公開されるスポットといえば。
それは――――



福井県にある、平泉寺白山神社。
今回はここで33年ぶりに行われた「三十三式年祭・開扉祭」……いわゆる「ご神像の御開帳」へ参加した様子を書き綴っていこう。

天気予報は雨マーク
ご開帳は5月23日から25日までのたった三日間。
本殿の中にあるご神像公開を33年毎になったのは江戸時代頃らしい。
確かに、江戸時代の人達はこういう語呂合わせでの縁起担ぎが好きなイメージがある。

ここ平泉寺白山神社は、神社の発祥も3人の行者(泰澄、淨定行者、伏行者)であったり、ご神木は三つ叉杉、ご神紋も3本の杉、神様の祀り方も3社構成(左、中央、右で白山信仰のご神体である三霊峰に見立てている)などなど、3という数字をとても重要視しているようだ。
33年に一度かつ3日間だけの公開というのもここから来ているのかもしれない。
しかしこの3日間限定というのが今回自分が探訪する上で高いハードルとなっていた。
23日は金曜日、仕事で訪れることができない。
そして仕事休みである24日、25日は高確率の「雨予報」だったのだ。
一週間以上前から天気予報とにらめっこしていたが、前後は晴れマークに変わったりするにもかかわらず、土日だけは雨マークが一向に外れなかった。
当初、雨の場合は訪れることを断念するつもりだった。
京都から平泉寺まではほぼ200キロの距離がある。往復で400キロ。
先日の北海道ツーリングでも雨には見舞われたが、せいぜい二時間ほど、距離にしても100キロに満たないくらいだった。
パラパラ雨ならともかく、土砂降りの中を往復で400キロ走るのは精神的にも肉体的にもバイクの車体的にもつらい。
制動距離が伸びる上に視界も大きく悪化するから事故のリスクも跳ね上がる。
とはいえ、この時期の天気は比較的変わりやすい。
雨だと思っていたら前日に急変して晴れたとかその逆もままあり得る。
淡い希望を抱き、もし晴れたら一泊二日で冠山峠か温見峠を越えて岐阜の西部を巡ろうという計画を練ったりもしていた。
――結果的には最後まで雨マークは外れず。
だが、土曜日の午前中はぎりぎり「曇り~小雨」という予報になった。
昼から本格的に降り始め、夕方から「土砂降り」になるそうだ。
自分の中にぴこーんと電球マークが灯った。
『金曜日の深夜に出かけて早朝に現地へ着いて参拝。そして昼前に現地を発てば、雨が強くなる前に京都へ帰れるかもしれない』
幸いにも北海道ツーリングからまだ3週間、長距離の移動に体が馴れている状態。
一日に400キロ走ること自体は今ならたいして苦ではない。
日帰りで他の場所が見られないのは勿体なくはあるけれど、平泉寺の参拝だけを目的に据えた日帰り旅というのも面白いかもしれない。
よし、いこう、そうしよう。
金曜日仕事を終えて帰宅したら仮眠して、夜中に出発だ!
・
・
・

というわけで、三時間ほどの仮眠をして午前1時半に京都を出発。
いつも恒例の「寄り道」は福井県に入るまでは全く発生せず、道中黙々と走っていた。
今回自分が英断だったと思ったのは、先日の北海道ツーリングのときと同じ冬用ウェアで臨んだこと。
出発時の京都の気温は20度くらいだったけど、長時間走っていると冷えてくるかもしれないと冬対応のライディングジャケットを選んだ。
ゴールデンウイークの北海道のときは夜半こそマイナス2度くらいまで下がったものの、日中は大体10度前後が多かったと思う。
このウェアはそうした気温において「長時間走っていると寒さがだんだん堪えてくる」というくらいの防寒性だった。
ひるがえって今回の福井行きでは道中15度~17度程度だった中、「ちょうど快適」に走ることができた。
寒さを感じず、暑くもなく、気持ちよく走り続けることができるレベル。
防寒性と一口に言っても、「この寒さまではなんとか耐えられる」という限界指標と、「この寒さまでは快適に過ごせる」という快適指標があると思う。
図らずも自分のライディングウェアの能力は、「限界:0度」「快適:15度」くらいなのだと前回&今回の旅で実測することができたようだ。
・
・
・
平泉寺到着。しかし……7時ではもう遅い?




途中、一乗谷朝倉氏遺跡でつい一時間半ほど「寄り道」してしまったため、平泉寺に到着したときにはもう午前七時になっていた。
白山のイメージからなんとなく山奥の神社かと思っていたら、意外と都市部に近い山裾に座していてちょっと驚いた。
本当はここからもう少し山間部へ入ったところに駐車場があるそうだが、33式年祭の期間は通行止めになっており、付近にある数カ所の臨時駐車場に車やバイクを停めて、徒歩あるいはシャトルバスで本殿へ向かうことになる。
先に書いておくと、今回に限っては寄り道せずにまず平泉寺に直行すべきだったと思う。
7時到着でさえ、すでに大勢の人が訪れて「本殿の参拝順番待ち」になっていたからだ。
「平泉寺白山神社・33年に一度のご開帳」という大イベントの参加者規模を、甘く見ていた。

結果的に、参拝の順番待ちだけで合計2時間以上を要することになった。
合計、というのは33年に一度公開される社がぜんぶで5箇所あり、1箇所ごとに順番待ちが発生するからからだ。
参拝はだいたい三人か四人ずつ行う。
お賽銭を入れて、祈って、二礼二拍手一例。
後ろの人に気を遣ってみな短めに済ますとは言え、数秒~十秒ほどはかかる。
それに加えてというかこっちが本題というか、これは「33年に一度のご開帳」。
本殿の扉の中のご神体を拝むことができる貴重な機会。
見入る時間も加わる。
そうするとどうしたって「スムーズ」とは言い難い進行になるのは仕方がない。

アイドルの握手会に行ったことはないけど、がんばって並んで会えるのは一瞬という点で、近しいものがあるのかもしれない。
7時着でさえそうだったのだが、帰り道11時頃には行列は数十倍に膨れあがり、ざっと数えて数千人、いやたぶん一万人以上に及ぶ超長蛇の列が数キロに渡って続く状態になっていた。
いったい何時間かかるんだろう。
四人が10秒で参拝を終わらせるとして、100秒で四十人。1000秒で四百人。10000秒(約3時間)で四千人。
一万人だとしたら…………6時間以上?
もし自分がこの時間に到着していたら、正直並ぶのをあきらめてしまっていたかもしれない。


とにかく多い。
めちゃくちゃ多い。
事前の想像の百倍くらい多い人出だった。
風雨来記4作中と、当日の境内の様子を並べてみよう……


















33年前のときは参拝者が三日間で約15万人だったというが今回はどれくらいなんだろう。
ともかく、33年後の自分がもしまた訪れるなら「絶対に早朝に着いて、いちはやく参拝しよう※」と強く心に刻み込んだ。
※ただし初日は儀式が終わってから、9時半以降のご開帳だったそうなので、早朝を目指すなら二日目以降
一方で、並んで参拝したことも決して悪い想い出ではない。
確かに、待ったために雨に降られる時間こそ増えたものの、苦労したからこそ記憶に残る部分も確かにある。
普通に参拝するだけよりもはるかに長い時間、苔に包まれた神秘的な境内で過ごせたというのもそれはそれで素晴らしい時間の過ごし方だったと思う。
順番待ちの中でふと上を見上げれば驚く程高い杉に目を奪われ、大きく息を吸えばこれだけの人出にも関わらず濃い緑の香りが胸いっぱいに広がって心が穏やかになった。
それに、早朝人が少ない時間に訪れてすぐに帰っていたら、そもそもこの記事を書くこともできなかったのだ。
・
・
・
それではここからは、今回のメインであり33年ぶりにお目見えしたご神像についてや、境内のあちこちを見ながら思ったことなどを書いていこう。
ご神像
先に書いたように、今回の開扉祭で公開されるのは5箇所だ。
まずは、平泉寺白山神社の主神であり、白山の三峰に対応する三社……
本殿「河上御前(ここでは白山の女神であり、イザナミともされる)」※
別山社「アメノオシホミミ」※
越南知社「オオナムチ」
この三社の扉が開かれて、それぞれのご神像がお目見えしている。
河上御前は悠然と座って正面を向いた女性像。
アメノオシホミミ、オオナムチは昔の武士か貴族のような御姿だった。
※本殿の御祭神はイザナミだが、ご神像は河上御前となっている。室町時代の作らしい。どういう経緯を経て、本来は別の神様であるはずの河上御前がイザナミとして本殿に祀られるようになったかは調べた限りでは不明。河上御前は古墳時代この地方に和紙技術を伝えた女神らしい。美濃の開拓に力を尽くした岐阜の金神社のヌノシヒメ(橿森神社の神様の母)のような存在なのかもしれない。名前の由来は村人から名を訊ねられた際に「名乗るほどの者ではない。この川の川上に住むものだ」と語って去ったことから。水に関わるという点では加賀の白山比咩神社の主祭神であるククリヒメとも共通する部分があるかもしれない。
※アメノオシホミミは、アマテラスとスサノオの姉弟喧嘩の際に生まれた神(アマテラスの子)。出雲の国譲りの際に最初にアマテラスの命を受けて出雲を征服するために遣わされたものの、途中で怖くなって引き返している。後に皇祖神ニニギノミコトの父親となる。
また、三社のさらに後ろ奥に進む参道があり、そこを進んでいくと「三ノ宮社」という社がある。
3にこだわる平泉寺にあって三ノ宮、しかも本殿よりもさらに山の上部にあることから、この土地において非常に重要な神様を祀っていると思われるこの社もまた、33年に一度のご開帳の対象だ。



三ノ宮社に祭られるのは「タクハタチヂヒメ」。
この神様は名前通り機織りの女神であり、安産の神様でもあり、天の岩戸開きを立案した知恵の神オモイカネの妹であり、先述のアメノオシホミミの妻神でもある。
ご神像は、首をかしげて頬に手を添えた優しそうな女性像だった。

そして最後のひとつが、この平泉寺を開山した泰澄大師を祭る「開山社」。
こちらは山伏のお姿だった。
以上の5箇所が、33年に一度の公開となっている。
・
・
・
あまりの混雑ぶりに、本殿のみを参拝して即変える人が存外に多い。
後の社になるほど順番待ちが少なくなるのは全部巡りたい側としては有り難いものの、せっかく33年に一度のお目見えなのにここまできてスルーなのは勿体ないとも思う。
特に最初の三社は、三峰を重視する白山信仰においてはひとつながりのものとも言えるし。
約二時間行列に並んですべてのご神像を見たところ、すべて同じ規格というか、ご神像のサイズ感やデザインが統一されているように思った。
同じ時代につくられたものなのかもしれない。
大きさは腕で抱えられるくらい、赤ちゃんより一回り大きいくらいだ。
33年に一度という希少さとは裏腹に、近寄りがたい神秘性やきらびやかで豪奢とかじゃなく、親しみを感じられる素朴な雰囲気だったのが個人的には苔に覆われた境内と調和していてとても良かった。
だがひとつ、注意点がある。
これも33年後の自分に向けて言っておこう。
「次回はサングラスを持ってくるべし」
なぜか?
開扉祭に訪れた人ならほぼ全員が同意してくれるだろう。
「社の中が暗くて全然見えない!」からだ。
暗いのになんでサングラスを持ってくるの?と思うかもしれない。
答えは「事前に暗闇に目を慣らしておくため」。
ご神像が安置されている社の中は光が入りにくいので真っ暗だが、ありのままを御覧になって欲しいという神社側の配慮(文化財保護の観点もあるのかも)でライトなどは一切使われていない。
そのため、外の明るさに対して内側が暗すぎて細部は全然見えない。
自分の、ご神像の外見への感想が短いのは、純粋にそれくらいしか分からなかったからだ。
(どんな服を着ていたかなどは1ミリも見えなかった)

かろうじてお顔だけはなんとか、というくらいだ。
長時間見つめればもう少し見えてくるだろうが、行列の中、十秒程度の参拝時間で目が慣れるはずもなく。
最後の最後、開山社に至ってようやく、「行列待ちのときずっと目をつぶっていれば暗闇に目がなれるはず」と思いついて実行した結果、泰澄大師のお姿だけはかなりはっきり見えた。
おそらく、サングラスをかけてもっと長い時間暗さに目を慣らしておけばさらに明確に見えるはずだ。
だから33年後の自分。
訪れるときにはサングラスを忘れずに。
アイマスクでもいいぞ。
・
・
・
なお、33年に一度の特別公開とは別にあと2箇所ほど、一年に一度程度しか公開されない建物が同時公開されていたのでそちらについても触れておこう。
ひとつは拝殿だ。
この中には大きな絵馬(ここで言う絵馬は語源である「馬を描いた絵」のこと)が納められている。
風雨来記4作中でも触れられていた「夜な夜な馬が絵馬から抜け出して悪さをした」という、あの絵馬だ。


ここは撮影が禁止されていなかったので遠くから撮った写真をひとつ添えておこう。

馬の絵はいくつも掲げられている。
どれが噂の馬だろうか。
全部だったら……たいへんなことになるな。
なお、もうひとつ特別公開されているのは宝物湖だ。
何百年も昔に描かれたきらびやかな境内図などが掲げられていて圧巻だった。

子供の悪戯、大人の横暴

ところで少し時間が前後するが、三ノ宮社を参拝したとき興味深いものを見つけた。
参拝し終えてようやく長い列から抜け出して社の後ろ側にまわった際、そこに何か文字のようなものが見えたのだ。
それは、こんな感じのモノ。


もしかしなくても落書きである。
とんでもない愚行。
誰がこんなところに落書きを、と思ってよくみると「大正六年」とある。
1917年……百年以上前の悪ガキがやった落書きがいまだにこんなにはっきりくっきり残ってしまっているのだ。
境内の案内板には、この三ノ宮社の社殿は明治22年に改築されたものだと書かれていた。
落書きされた当時はまだ築40年くらいか。
たぶん消そうとはしたんだろうけど、消えきらなかったんだろうな……
社というのは、屋代という字をあてれば分かりやすいように、「本来は場所に縛られない神様にとどまってもらうための仮のお家」だ。
自分の家に落書きされたら誰だってイヤだろうとは思うが、落書きする方にそういう想像力や共感力があればそもそも落書きはしないわけで……
まあ、ここの女神様は安産の神様と言われる優しそうな神様だから、子供の悪戯なんかで目くじらたてずに笑って許してくれそうな気もする。
見えづらい後ろ側というのも不幸中の幸いかもしれない。
境内には、子供の落書きなど可愛いものかもしれないと思えるような、「大人の横暴」の痕跡もある。

首のない仏像がたくさん転がっている。
首なし地蔵そのものはそう珍しくはない。
首の部分は他より細いから、野外にあって風雨にさらされたり何かしらの衝撃を受けることで折れてしまうことがあるのだ。
旅をしているとたまにそうした首のないお地蔵さんやこま犬を見かけることがある。
首がない=クビがない=リストラ除けとか、クビから上の病気に悩まなくて済む、みたいな特別な御利益を願われているケースも多いようだ。
だが、ここのは数がやたら多い。
これは、あれかもしれない。
廃仏毀釈。
この場所の名前は、「平泉寺白山神社」だ。
元々、一番最初は「平清水」という名前で、白山信仰(修験道=山岳信仰)の修行場だったそうだが、その後仏教的性格が強くなって千年以上の間ずっと「平泉寺」、つまり寺院として発展した。
だが明治時代になって急に神道と仏教を分離することになり、平泉寺は神社とされ、神社内の仏教的要素の大部分が排除されることになった。
そのときに「大人が法律という大義名分の上で行った」破壊の痕跡が、この首のない仏像群なんだろう。
もちろん、実際にこの行為を行った人の気持ちは分からない。
新しい時代のためにと純粋な気持ちで壊したのか、それともあまり深く考えずに勢いのままにやったのか。
あるいはやりたくないけど法律だから泣く泣く、だったのか。

それから100年以上の時が過ぎた今。
首が無くても決して禍々しさは感じないのが不思議だ。
苔に包まれた仏像たちは、破壊されてなお、優しく世界を見守ってくれている感じがする。
神社となった平泉寺のひとたちも、きっとそういう想いで仏像群をこの場所に残し続けているのかもしれない。
そっと手を合わせておいた。
苔の宮

平泉寺は別名を苔宮とも言う。
実際訪れると、確かに美しい苔に覆われた場所だ。
本当に至るところがいっぱいの苔で覆われている。
境内だけじゃなく、そこに至る参道も、なんなら境外の普通の道ばたや水路にさえやけに苔が目立った。
苔、苔、苔、苔、苔。
おそらくこのあたり一帯が、苔の生育に適した環境なのだ。











・
・
・

古代の参拝路だった石畳も、やっぱり苔で覆われている。
風雨来記4と同じく自分も、歩きやすいアスファルトではなく歴史のあるこっちをつい歩いてしまう。

・
・
・



帰りは雨が降ってきたので石が露出しているところがやたら滑るので、自然と苔むしているところ(滑りにくい)に足を置いてしまう。
そうしていると「これは苔の生育的には良くないだろうな」と思った。


別にこの石畳の苔は保護されているわけでもなんでもなく、単純に人があまり通らないから繁茂している点では雑草と変わらない。
道ばたの雑草を踏むのに躊躇するひとはあまりいないだろう。
それを思えば、わざと害そうとしているわけじゃなければ苔の生えているところを踏んでも問題はない…………かもしれないが、やっぱりできるだけ綺麗なものには綺麗なままでいて欲しいと思ってしまう。
だからまた、苔の生えていない、滑りやすい石の上を選んで歩き始めた。


京都にも、苔寺という苔の庭で有名な観光地がある。
豊かな自然の象徴としてあげられる白神山地や屋久島の森林も、地面は苔で覆われているイメージが強い。
人は、苔をみて綺麗だなと思うけど、それは同時に、人間が足を踏み入れていないからこそ。
人が頻繁に歩くところには苔が生えないからだ。
見方によっては人間とは相容れない景色とも言える。

ふと想像してしまう。
もし、この平泉寺に十年ほど誰も足を踏み入れなければ、どんな風景になるだろう。
道路も石畳も階段も、見渡す限り一面の地面がふかふかの緑の絨毯に覆われるんだろうか。
それは、まるで映画やゲームに出てくる古代の遺跡のような姿かもしれない。


遺跡という側面
遺跡と言えば、実際にこの平泉寺は遺跡という側面も持っている。
現在境内となっているよりも、本来の平泉寺は大規模だったため、周辺の至るところに遺物が眠っているのだそうだ。
その一部には境内から分岐する形で散策路が設けられていて、石畳や中世仏教施設の跡などを確認することができた。
これは訪れる前には知らなかったことだ。
雨足は強くなり始めていたものの、わくわくしながら散策した。






石畳というものはどうしてこんなにロマンをかき立てられるんだろう。
人工物ではない自然由来の石ではあるが、人の手によってでしかできない石畳という構造物。
それが時を経て、草や苔という自然物ととけ合っているその調和感が「良い」のかもしれない。
この感覚はきっと世界共通だ。
岐阜に行けば大勢の外国人が嬉々として中山道の古道を歩いていたし、ペルーのマチュピチュに行ったときも、石畳のインカ古道はやはり人気の観光ルートだった。
・
・
・

ここにはもうひとつ遺跡がある。
遺跡というか神績というべきか、「平泉寺」の名の由来でもある「平泉(御手洗池)」だ。

風雨来記4作中でも語られていたように、開祖である泰澄大師がこの泉でイザナミのお告げを聞いたことがこの平泉寺白山神社の出発点と伝えられている。


水は深く静かに不思議な色をたたえていた。
カラカラカラ、と不思議な声が響く。
これはアオガエルの鳴き声だ。
モリアオガエルかシュレーゲルアオガエルかは自分にはちょっと判別できない。
泉の向かいには、泰澄大師自ら植えたと伝わるご神木「三又の杉」が空を支えている。
そばには今では使われていないらしい、苔むした水汲み場。


ちなみにここを訪れたのは着いてすぐ、本殿への参拝の途中。
泉の畔でほんの十分ほどのんびり時間を過ごしてから元の参道に戻ると、さっきまでは無かった行列がずらりと並んでいて仰天したのは今となっては良い想い出だ。
旅のまとめ




そんなこんなで約5時間かけて平泉寺白山神社を巡った。
とても有意義な時間で、長距離日帰りツーリングに挑戦してみてよかったと思った。
帰り道は京都に近づくにつれてどんどん雨が強くなり、最終的には本降りの中走るコトに。
平泉寺をちょうど正午頃に出発、京都到着は予定より時間がかかって午後4時半頃となった。

課題としては、帰り道かなり強く雨に降られてしまいウェアの内側に水が染みこんで体が濡れたことで体力を削られた結果、後半ちょっと運転が雑になってしまったこと。
雨の中での長時間走行は思っていた以上に消耗が激しかった。
とはいえ、しっかりとした防寒具と雨具を用意してこれだったから、反省と言うよりは次のスケジューリングに活かす教訓としたい。
事故を起こすことなく、無事に日帰り400キロ走り抜けることができたのは確かな成果だ。
全体として楽しく、充実した旅になった。
次のご開帳は33年後……
33年という数字はなかなか絶妙だ。
人の人生において最大で3回しかチャンスがない。
実際問題、生活や仕事、病気、環境の変化その他様々な事情によって、二回訪れることが出来るひとさえ稀だろう。
ほとんどの人にとって、一度きりの機会。
一方で、初代風雨来記の発売が24年前ということを思えば、33年というのも人生の中では意外とあっという間かもしれないな、という気持ちもする。
33年後、このブログはあるだろうか。
33年後の自分も、リリさんを追いかけ続けているだろうか。
絶対にそうだ、なんて言い切れないし言い切らない。
命は有限で、生きている限りそれがいつかは尽きる。
その日がいつくるかなんて誰にも分からない。
五十年先かも知れないし、一年先、明日、いや一瞬先のことかもしれない。
いつか必ず、別れは来る。
だからこそ、明日のことは分からないからこそ、自分はこのブログを書き続けて来た。
今日の自分が好きなリリさんのこと。
今日の自分が思うこと、考えたことを大切にしようと、言葉にして書き続けてきた。
その積み重ねの結果、今ここにいる自分がある。
リリさんを全力で追い続けている自分がいる。
そんな自分であり続けるために今日まで一歩ずつ進み続けてきたし、これからもそうしていくことが、自分にできる最大のことだ。
その結果33年後の自分と、ここでまた会えたらいいな、と思う。
もし機会とご縁に恵まれたら、今回の経験を活かしつつ、33年のときを経てまた扉の奥の神様たちとお会いしたい。
そのためにも、楽しく元気に一歩ずつ、今日という日を大切に前へ進んでいこう。
・
・
・
おまけ。
今回は平泉寺が目的の旅だから他のことはあまり触れなかったけれど、道中で印象的だったことをふたつだけ挙げて、記事をしめくくろう。
「金色の麦畑」と「日本のポンペイ」
ひとつは「麦畑と水田のコントラスト」だ。
福井の内陸部に入ってしばらくすると、水が張られて鏡のような田んぼが広がるのと同時に、金色の畑がやたらと目に着くようになった。


これはきっと、麦畑だろう。
小麦か大麦かすら自分には分からないけど、北陸は麦茶の原料となる大麦の生産地らしいので大麦なのかな。
穂先の毛みたいのがぱっと開いてるのが大麦らしい。
あまり馴染みがない風景だが、どこかで見た気もする。
外国が舞台の映画やゲームでは、麦畑は割と目にする光景だからかもしれない。
面白いのが、麦畑と水田が隣り合わせや向かい合わせでモザイクのように並んでいること。
麦の金色と水田の青色のコントラストが面白かった。




・
・
・
もうひとつは日本のポンペイとも言われる「一乗谷朝倉氏遺跡」だ。
京都から平泉寺白山神社へ向かう際、ちょうどここを通るルートを見つけたので寄り道した。
ここは風雨来記4※で知って以降、ずっと訪れたかった場所。
このブログを読んでくれている人は前々から「行きたい」「行きたい」とことある毎に書いていたので知っているかもしれない。
※ちなみに、風雨来記4における一乗谷朝倉氏遺跡はDLC(追加有料ダウンロードコンテンツ)の追加スポットだが、解放条件がかなり難しい。
ヒントは「律令時代の遺跡」だ。この条件はごく限られるので、結構ダイレクトなヒントになるかと思う。



ポンペイは古代ローマの都市名で、約二千年前に火山噴火で一夜にして街全体が埋没した後、正確な場所が失われ、近年になって再発見・発掘したところ、「火山灰が保存剤となって」ほとんど劣化のないローマ当時の街があらわれた……という歴史ロマンのかたまりのような場所のこと。
一乗谷の朝倉氏遺跡はさすがに一夜というわけではないものの、当時荒廃していた京都以上と言われるほどの都市があったにも関わらず、戦国時代に滅亡・完全に忘れ去られた結果、土砂に埋もれて近年までずっと水田の下に「保存されていた」という経緯が似ているということで「日本のポンペイ」と呼ばれるのだそうだ。
ここは戦国時代の「城塞都市」であり「計画都市」でもある。


この写真を見ると、「一乗谷」の名通り左右を山に囲まれた谷間ということがわかるだろうか。
谷の「入り口」と「出口」を「大きな城壁で塞いで」、その中に造った都市らしい。
今でもこの城壁跡が残されている。

北の城壁から南の城壁までは歩いて30分くらいかかる。
その広いエリアに、現在の岐阜市以上の人口密度で人が暮らす都市だったそうだ。
ここを探索するには一時間では全然足りない。
整備が進んで風雨来記4の頃と見た目が変わっているところもあった。


庭園跡では、ガラス床が設置されて遺跡の上を散策できるようになっていた。
ガラス床は当時の御殿の床の高さに合わせているらしく、ここに暮らしていた人々の視点に立つことができる。


最初に書いたように、今回の記事は平泉寺メインなのでここの探訪記はまた機会をあらためて書くことにする。
「簡単に」で済ませるには書きたいことが多すぎるスポットだからだ。
ここには、平泉寺とともにまた季節を改めて……できれば夏になったらまた訪れるつもりだ。
そのときは冠山峠か温見峠経由で岐阜もまわりたい。
というわけで今回はここまで。
また、どこかの旅の空の下で。
コメント