種蔵。あの日彼女が見た風景【風雨来記4を追いかけて・岐阜旅行記8】

2022岐阜の旅



■前回




棚田と板倉の里 種蔵



飛騨国府からさらに北上。

途中一度道に迷って神岡方面へ行ってしまったり戻ったりしつつ、富山との県境が近づく宮川沿いの国道360号線を数十分走ると、右手に「棚田と板倉の里 種蔵」の看板が見えてきた。





はじめて来る場所だけれど、風雨来記4の中では何百回と往来したため、もはや近所の道よりも見慣れてしまったたT字路。
この道を過去に実際に走ったことがあるような錯覚さえしてしまう。
こういうのもデジャヴというんだろうか。


でも、ここから先はゲーム内では描かれていない区間だ。
わくわくしながら、線路の高架をくぐり、曲がりくねった急な坂道を登っていく。







180度の急なカーブを折り返すたびに、急激に高度が上がっていく。


これでもかというくらい「夏!」真っ盛りの空気を感じながら2、3分ほどバイクで走ると、不意に視界が開けた。





到着だ――!





京都から二日がかり、距離は約300キロ。
走行時間はなんだかんだで延べ12~13時間かかっただろうか。


遠かった……けれど着いてみればめちゃくちゃ遠いという感覚でもなかった。

特に飛騨に入って以降は道も(高山の市街地以外)空いていたし、日差しは強くても空気がさわやかで、爽快な旅路だった。
その証拠に疲労感は全然ない。

あー。良い感じで走れたな-、と静かな充実感に満たされた。



あの場所へ。





広い駐車場の隅にバイクを停め、ヘルメットを外して深呼吸する。
他に観光客の車はなかった。


めちゃくちゃ静かだ。
無音というんじゃなくて、流れる水音や風や虫、鳥、色々な音が入り交じって、それがとても静かに感じる。

まずは、ゆっくりとあたりを散策してみることにした。






駐車場横の池には数カ所から水が流れ込んでいる。水量がすごい。

開けた丘の上にあるのに、こんなに水が多いのが不思議だ。
どこから湧いて来るんだろう。
(これについての考察はこの記事の最後に)

集落の背後には、すりばちのような斜面の上に背の高い木々が立ち並んでいた。













集落内の道を少し歩いていくと、数分とかからず「見慣れた」風景が目の前に広がった。

昔、摩周第三展望台にはじめて訪れた時もこんな感覚を覚えた。
マチュピチュに訪れたときもそうだった。

ずっと憧れていた場所、行ってみたいと心から焦がれて、脳裏に刻み込んでいた、イメージしていた場所を実際に訪れたときに……
「想像」が「現実」にとけ込んでいく感じ。

夢が正夢になったみたいなふわふわした気分だった。







田んぼの横を通って、板倉の集まる丘に近づいていく。






板倉の間を抜けるここの道は、ものすごく急な坂だ。
人によっては両手を使って登る必要があるくらい。
(あとで気付いたが、もっとゆるやかなルートも他にあった)


登り切ってから振り返ると。







夏の空の青と、雲の白、板倉の黒褐色。
石垣のグレー、草と山の緑。そして白や紫の花々。
風景のコントラストがものすごく強くて、感嘆の吐息が出た。


360度、どこを見回しても絵になる風景だ。
この鮮やかな景色を見られただけですごく満足感がある。


今日、快晴の日に来られてよかった。



ひとまずこの旅の一番の目標を達成できたこともあって、ほっとひといき、という感じだ。

時刻は午後一時頃、日差しは強いけど適度な風が吹いていて心地いい。










「隣り合わせ」のお墓



周囲をのんびりと眺めていた。
前々から種蔵の写真等を見てちょっと不思議に思っていたけど、ここは、「先祖代々のお墓」が倉や田んぼのすぐそばにある。
生活圏内に立つ墓地、しかも単独のお墓というのは珍しい。




種蔵のお墓については、風雨来記4作中でも印象的なところだ。


風雨来記4/2021 Nippon Ichi Software, inc./FOG




リリさんの出会いでは、彼女の背後にお墓がある。
初代からの風雨来記ファンには、ミスリードを抱かせただろうシチュエーション。
自分も最初は、この子はもしかして地縛霊?みたいに考えてしまったっけ。



風雨来記4/2021 Nippon Ichi Software, inc./FOG





墓地は、生活圏とはある程度離されて、区別されているのが現代ではふつうだ。

自分の母方の家系が滋賀の農家で、平成初期まではまだ土葬をしていたくらいの田舎だけど、そこも民家から離れたところに墓地があった。

これまでの旅でも、お墓がこんな風に単独で、家のそばや田んぼに建てられているのを見たことはほとんどなかった。

そのため無意識のうちに自分の中に、お墓は昔から、お寺や地域の共同墓地のような「決められたところにあるもの」という思い込みもあったかもしれない。



調べてみると、昭和初期に法律が改正されて「公的に定められた墓地以外への埋葬の禁止」が決まったそうだ。
それ以前は個人の敷地に自由に建てることができた。
そして、すでに建てていたケースのみ、法が改正された後もその墓地の継続が許可されたらしい。


つまり、種蔵集落にこうやって建っている先祖代々のお墓は、少なくとも昭和初期にはすでにあったことになる。
もしかすると、江戸時代にこの種蔵の土地が開拓されて以降続いてきたお墓なのかもしれない。
石垣を組み、水を引き、棚田や倉を築いてきた開拓者達が眠るお墓。


このお墓も、種蔵集落の歴史の一部なのだ。
だから、こんなにも自然に、この風景に馴染んでいるのかも。




「種蔵」という地名は最初からそういう名前だったわけじゃなく、天災や飢餓が訪れた時に、村の倉に溜めていた作物の種を他の村に分け与えたことでつけられたそうだ。


「田んぼ」は生きるための糧である穀物をもたらす場。
「板倉」は、生を未来につないでいくための種を貯蔵する建物だ。


そんな「生」の象徴である田んぼと板倉と、「死後」の場であるお墓が隣り合わせに違和感なく存在している。
分け隔てられることなく同じ空間にある。

それは――





仕事場であり、命を繋ぐ糧となる田んぼや倉を、いつもご先祖様が見守ってくれている。
そう思えばこんなに心強いことはないし、そしていつか自分が生を終えるときも無になるのではなくそこで同じようにこの土地を見守り、また子孫達に見守られていく。

そんな風に思えることはきっと、厳しい飢饉や天災を乗り越える中でも心の支えになってきたんじゃないだろうか。










少し話は逸れるが、もう少し考えてみたこと。


普段自分達が見かけるお墓が、なぜ「生活の場から離れたところに墓地として区切られて置かれているのか」と考えれば、もちろん色々な理由があると思う。

決してただ死への忌避の気持ちだけでそうなっているわけではないはずだ。
遺骨や遺灰を自宅で安置する人もそう珍しくないのだから。



元々、縄文時代までは集落の中、家のそばにお墓を作るのが普通だったことが発掘調査によって分かっている。
それが弥生時代に入ってから、村の共同墓地に埋めるようになった。

稲作の導入で爆発的(地域によっては数倍~数十倍)に人が増えたことで人口が過密し、伝染病などの問題が多発して「生活圏と墓地は遠ざけた方がいい」という経験則が生まれてきたのかもしれない。
その後日本に入ってきた仏教(≒当時の最新文化)が火葬を推奨したのは、衛生面が理由でもあるだろう。



一方で、墓地はある種の「神域」という感覚もある。
日常と切り離された、死者が休まる清浄な空間。
実際、「古墳(神様=古代の有力者のお墓)」に起源を持つ古い神社をこれまでいくつも見てきた。



沖縄の信仰場である御嶽も近い要素を持っていて、祖先のお墓を聖地として祀っている場合が多い。

余談だが、祖先崇拝が文化として浸透している沖縄では、毎年4月のお墓参りのときに、先祖代々のお墓に親族が集まって飲めや歌えの宴会をする風習がある。
そうやってみんなが楽しく笑って過ごすことで、先祖の霊たちも安心して喜ぶという考え方なのだそうだ。

コンビニやスーパーマーケットに、先祖のための「あの世で使えるお金」が売られているくらい、死後の世界が「身近な」土地でもある。




そんな風にお墓や祖先について考えを巡らせていてふと、思う。
現代人は古代のお墓を「学術調査」の名目で掘り返したりするけど、それってよーーーく考えたらけっこう業が深いのかもしれない。


「遠い昔のことだから」と時の流れを免罪符にしたり、「彼らが生きた証を再発見し、明らかにして歴史に残すため。彼らもきっと喜ぶだろう」と勝手に代弁して正当化したりして、発掘を行う。
考古博物館とかに行くと、場所によっては縄文人や弥生人の頭蓋骨や、全身骨格(もちろん本物)が展示されていたりする。


「人にされて嫌なことしちゃいけない」という観点から見れば、「自分や自分の大切な人のお墓を死後にあばかれた上に骨をさらされる」って、個人的には絶対されたくない、野蛮で冒涜的所業だとさえ感じる。


にもかかわらず、古墳や遺跡が発掘されて隠された歴史が明らかになることにワクワクしてしまうし、古代人の骨や遺物を見て敬意を抱きつつも過去を想像しロマンを感じてしまったりするのだから、いやほんと、勝手なものだと我ながら思う。


これに関しては、そういう矛盾と心の中で自分なりにうまいこと折り合いつけながら、生きていくしかないのかもしれない。



話がだいぶ脱線してしまった。

種蔵探訪に戻そう。








あの日リリが見た風景


自分にとっては、色々な意味で転機になったリリさんとの出会いの場所。



風雨来記4/2021 Nippon Ichi Software, inc./FOG



その種蔵に今、訪れている。





あの夏リリが眺めていたのは、この板倉だ。





夏の盛り、雑草たちの元気もものすごい。
歩くたびに小さなバッタがぴょんぴょん跳ねていく。




最初の旅の、別れの場所。
あの時の笑顔と言葉が今も前へ、背中を押してくれている。


風雨来記4/2021 Nippon Ichi Software, inc./FOG














実は、自分がここを訪れたら、是非確かめようと思っていたことがあった。




風雨来記4/2021 Nippon Ichi Software, inc./FOG
風雨来記4/2021 Nippon Ichi Software, inc./FOG





『リリがあの時見ていた風景はどんなものだったのか』












青い空と、板倉の屋根だった。











水源




丘の向こうにも道が続いていた。進んでいいものだろうか。

集落入り口の案内看板以外、特に観光用の経路案内などが立っているわけではないので、ちょっと躊躇してしまう。
この先にも板倉や宿泊施設やキャンプ場があって見学ルートにもなっているようなので、おそらくここの農道は進んでも良いのだろう、と判断する。





もう少し先まで見学させてもらおう。






道の両側、ここは田んぼではなく畑だった。
何の野菜だろう。


種蔵には飛騨伝統野菜「種蔵紅かぶ」という、漬け物用の希少赤カブが栽培されているそうだが、畑に生えているのが「それ」かどうかはちょっとわからなかった。





ある程度進んで立ち止まる。





足下の鉄板の下では、かなりの勢いで音を立てて水が流れていた。


ここは、丘陵のちょうどてっぺんに位置する。

あれ……じゃあ、ここへはどこから水が流れてくるんだろう。
まさか、まさにこの足下から湧出しているんだろうか?






もしそうなら、水源よりも土地が高いせいで水で満たすのが難しいから、この付近だけ田んぼではなく畑にしているのかな?






こちらにも板倉が数棟と(ここが宿泊施設かな?)、






小川があった。
ここもけっこうな水量だ。

丘のあちこちからこんなふうに湧水がたくさん湧き出している土地だから、開拓地として選ばれたのかな。






隣には炭焼き小屋がぽつんと建っている。
観光客向けに、ご丁寧に「炭焼小屋」と書かれているのがちょっとおもしろい。
背後の棚田や石垣とあわせて、絵に描いたようななつかしさを感じる風景だ。







今回はここでUターン。
のんびりと来た道を戻り、今度は別の場所を散策する。






種蔵の棚田を、高い場所から見渡せた。
宮川を挟んで対岸の棚田まではっきり見える。













種蔵には、観光客用の駐車場と、土地の説明が書かれた案内板、整備が行き届いた綺麗なトイレはあるけれど、売店やお土産物屋さんがあるわけでもなく、ジュースの自動販売機さえも見かけなかった。


商売っ気皆無。
強いて言うなら駐車場にある控えめな景観保全の募金箱くらい。

本当に素朴で素のまま、「観光地化」されていない観光地だ。






観光と言う言葉の原義は「その国の光(素晴らしい風景や歴史的建造物、風俗文化等)を観察する」だったそうだ。
そこにしかないすばらしいものを観て、体験して、見聞を深めることで、その土地を識る行為。








ここは、そんな「観光」を邪魔する余計なものが一切何もないぶん、純粋に風景と空気だけを味わうことができる場所だと思う。



風雨来記4/2021 Nippon Ichi Software, inc./FOG
風雨来記4/2021 Nippon Ichi Software, inc./FOG





種蔵のはじまりと宮川の縄文時代



種蔵の始まりについて調べてみると、現在の種蔵集落へ直接的につながる歴史は江戸時代に端を発するそうだ。


古い記録では、陸奥国の棚倉地方(現在の福島県棚倉町あたり)からこの地に移住してきた開拓者たちが祖先で、それ故にはじめは出身地と同じ「棚倉」という集落名を名乗っていた。
その後、周囲の村に種籾を分け与えたことから、「種蔵」と呼ばれるようになったと伝えられているというのはすでに書いた通りだ。



では、それより以前、古代のこの地域はどうだったのか。
前回の記事で書いたように、弥生時代から古墳時代にかけて日本海側から出雲系の人々の流入があって、飛騨古川~国府周辺が大きく発展した。






種蔵のある宮川町はそのルートの途中にある。
だが、川は利用しつつも土地は素通りだったのか、この地域には当時の遺跡はほとんど見つかっていないらしい。

それは地形が理由と思われる。
稲作に適した場所が少なかったのだ。
当時はまだ、ここまで急な坂に棚田を築く技術がなかったか、あるいは労力に見合わないと判断されたか。


種蔵集落の入り口から北側を見る。丘の下に宮川が見える
下の川が宮川、上の拓けた場所が種蔵集落



宮川の両岸の丘はすりばちのように急な斜面になっている。
こういう地形を、河岸段丘というそうだ。

そりゃ、開拓者である弥生人たちが富山湾の方から川をさかのぼってやってきたとして、わざわざここを国作りの場として選ばないだろう。
あとほんの少しだけ川上に進めば「古川国府盆地」という、広い耕作適地があるんだから。

でも、縄文時代以前はそうじゃなかった。
盆地や平地よりも、河岸段丘の方が「住みやすい土地ランキング」が高かったようだ。




宮川町も例外ではなく、1万4千年以上昔の旧石器時代から縄文時代にかけて、この河岸段丘で多くの人々が暮らしていたことが発掘調査によってわかっている。

とても住みやすく、定住・半定住の拠点としてメリットの多い土地だったようだ。


中でも特筆すべき発見として、縄文時代後半の非常に個性的なある「遺物」が多数出土している。

そしてその「遺物」によって、実は縄文時代のこの地域が、能登や飛騨のかなり広範囲で認知されていた特殊な石工集落だったことも判明した。

なぜそんなことが分かるかと言えば、その「遺物」が、この地域でしか採れない石を使った「地域特産品」であり、遠く離れた富山各地の遺跡で「それ」が出土しているからだ。






種蔵集落のすぐ北側に「飛騨みやがわ考古民俗館」がある。
ここは縄文時代の遺物と、近世の民俗資料を保管している施設だ。


飛騨市宮川町内では旧石器時代~縄文時代までの遺物が多数発掘されていて、ここに収蔵されているだけでもその数40000点を超える。
うち1845点が岐阜県の文化財に指定されている充実っぷりだ。



そしてそのすぐそばに、塩竃金清神社という神社があるのだが……






この塩竃金清神社は、「遺跡」でもある。

明治以前からこの神社周辺は縄文時代の石器が多数出土する場所として知られていて、近年の本格的な調査で「ある特産品の工房跡」だったことが分かった。
原料の石や制作過程、そしてそれに用いた工具まで発掘されたためだ。

その特産品、遺物こそが縄文石棒、いわゆる「コンセイサマ」だ。




生と未来の象徴

「コンセイサマ」。
自分はこの言葉を、風雨来記の原型である東北を旅するゲーム「みちのく秘湯恋物語」で知った。


みちのく秘湯恋物語kai / FOG




コンセイサマは、主に東日本で古くから民間信仰されてきたカミサマたちだ。


個人的にも、岩手県遠野地方でとあるコンセイサマを参拝した際のことがいまだに記憶に残っている。

その時は自転車でのテント旅で、訪れたときに日が暮れかかってた。
そうしたらコンセイサマが祀られているお堂を管理している人が「じゃあここで寝ていけば?雨風しのげるし」と言ってくれたので、お堂の中に一晩泊まらせてもらうことになった。

その人はそのまま自分の家に帰ってしまったので、山の中のコンセイサマのお堂に自分一人。
お堂の床は畳敷きで、そこに寝袋を敷いて寝たわけだが、目の前にはご神体のコンセイサマが鎮座まします。



神様の眼前で一晩寝ると言う体験なんてそうそう無い。
畏怖もあるし緊張もするし、明かりひとつ無い夜の暗闇の中、ぼんやりとシルエットが浮かぶ1.5メートルというほぼ人間サイズの巨大なコンセイサマの視覚的インパクトもすさまじかった。









コンセイサマとは、つまり、「男性器をかたどった石」のことだ。
安産祈願や子孫繁栄を願って縄文時代より続いてきた信仰形態。

金勢とか金精とか、地域ごとに色々な字を書く。
ここ宮川村では「金清」神社、というふうに。


コンセイサマ信仰の起源については諸説あるが、一説によれば、縄文時代の石棒が中世頃(鎌倉時代とか室町時代あたり)に発掘されて、それが「コンセイ」と呼ばれ祀られるようになったのがはじまりと言う。
実際、キンセイやコンセイと名の付く土地には縄文時代の遺跡が付随していることが多く、塩竃金清神社もそのケースだ。


元々は単独の神社「金清神社(祭神:イザナギノミコト)」だったそうで、昭和初期に、近隣にあった「白山神社」「塩竃神社」を合祀して「塩竃金清神社」となったらしい。


(ちなみに「塩竃神社」は陸奥国一ノ宮なので、種蔵を拓いたという陸奥国棚倉からの移民の人々が祀ったものなのかもしれない)



岐阜県飛騨市宮川町塩屋 塩竃金清神社





そんな塩竃金清神社遺跡からは大量の「縄文石棒」1000個以上と、その制作工房の痕跡が発掘された。
普通の集落だと石棒は数本見つかるかどうか、と言えばその数の破格さが伝わるだろう。
なお発掘は一部なので、まだまだ数千本以上地中に埋まっていると言われている。







さらにその材質は、ここでしか産出されない特殊な石「塩屋石」だということも分かっている。
塩屋石はマグマが冷えて固まった「柱状節理」の石質で、正式名称「黒雲母流紋岩質溶結凝灰岩くろうんもりゅうもんがんしつようけつぎょうかいがん」。

柱状、棒状にうまく割れやすく、加工がしやすい、石棒制作にぴったりの性質なのだそうだ。


宮川村地域では、先述した通り1万4000年前の旧石器時代からの遺跡発見例があるが、塩竃金清神社遺跡が最盛期だったのは、縄文時代も終盤にさしかかった今から4500年前~3500年前あたりのこと。

この時期ここで作られた石棒が、能登や飛騨を中心に周辺地域へ輸出され続けたらしく、特に富山各地の遺跡で発見されている。




「石棒」は「土偶」の対とも言われる縄文遺物だ。
女性を象徴する土偶と、男性を象徴する石棒。


出土事例でも土偶と同じく、一部分を意図的に壊されて土の中に埋められているものも少なくない。
おそらく何らかの呪術か、宗教的儀式に用いたものだろうとも言われるが、やはり土偶と同じく、石棒の用途も「よく分かってはいない」というのが本当のところだ。





https://hida-bunka.jp/wphidabunka/wp-content/uploads/2018/02/b4707b5934d7a70858f6d8461bb8acc8.pdf
参考:飛騨市美術館「石棒のふしぎ」


石棒 文化遺産オンライン
土(ど)偶(ぐう)が女性を象徴する縄文時代の祈りの道具である一方で、男性を象徴する祈りの道具が石(せき)棒(ぼう)です。石棒には男性器を写実的に表現したものがあることから、子(し)孫(そん)繁(はん)栄(えい)や豊(ほう)饒(じょう)を祈...














「子供を授かる」というのは、いつの時代も決して当たり前のことじゃない。


医学が科学の進歩とともに急速に発達した現代日本でさえも、三組に一組の夫婦が不妊について心配した経験があり、五組に一組が実際に不妊の検査や治療を受けたことがあるというデータを、厚生労働省が発表している。
継続的に不妊治療を受けた場合でも、妊娠まで至る割合は20%以下と言われる。

子供が欲しくて欲しくてたまらなくても、どんなに準備し、努力し、願っても、それが叶わないことに苦しみ、悩んでいる夫婦は現在も大勢いる。



また、2023年現在、帝王切開(手術で母体のお腹を切って赤ちゃんを取り出す技術)が全出産の25%を占めている。
4人に1人だ。調べて知ったとき、そんなに多いのかと驚いた。

帝王切開は、自然分娩では母体、胎児どちらかあるいは両方に命の危険性があると医師が判断した場合にとられる処置であり、言い換えればそれくらい出産は命懸けの行為だということだ。



現代においてさえそうなのだから、帝王切開どころか医学自体がなかった古代での妊娠、出産は、一体どれほど大変なものだっただろう。




生物としての人間は体のサイズに比して大きな脳と高い知能を持ったため、他のほ乳動物と比べて妊娠・出産・子育てに大きなリスクを抱えている。


十ヶ月という長い妊娠期間中、母体の動きは制限される。
さらに胎児が母体内で少しでも成長し過ぎてしまうと、出産時のリスクが母子共に上がってしまう。

無事出産したあとも、人工ミルクがなかった古代においてはうまく母乳が出なければ即赤ちゃんの命に関わった。
離乳後も、その子が独り立ちできるまでにさらに十年以上の月日をかけて守り、育て続ける必要がある。



子抱き土偶 東京都https://www.city.hachioji.tokyo.jp/




また女性は、妊娠・出産するたびに母体の免疫が一時期的に下がり(胎児を母体の免疫から守るための反応)、ホルモンバランスも乱れ、感染症にかかりやすくなる。
特に歯にそれが顕著にあらわれ、一昔前までは「子供を一人産むたびに歯を一本失う」と言われていた。
(自分の祖母は40代までに12人の子を産んだが、50歳で歯がすべて無くなっていた)





縄文時代は子供が10人生まれても、20歳まで生きられるのは1人か2人だったと言われるくらい乳幼児の死亡率が高かった。

それは裏を返せば、自分自身の命を削りながらも産み、育み続けた遠い古代の母親たちがいたから、いま現代に生きる自分達が存在するということだ。



そんな世界で、「多産、安産、健康に恵まれること」は、何よりも根源的な願いだったに違いない。



出産文土器 山梨県https://www.city.hokuto.yamanashi.jp/





だからこそ縄文石棒や土偶のような「安産」「子孫繁栄」「健康」の象徴への信仰や、夫婦や子を守る神様を祀ることは、人々の心の安定、拠り所として絶対不可欠だったのだと自分は思う。

そうした信仰は、形を変えながら現代にまで続いている。


風雨来記4/2021 Nippon Ichi Software, inc./FOG

母子共に健康に。いつの時代も一番の願い 風雨来記4/2021 Nippon Ichi Software, inc./FOG







縄文時代の遺跡からしばしば、「意図的に壊され」た上で埋められた石棒が見つかるのは「成就した証」なのか、それとも「成就しなかったから」なのか。
あるいは、現代のおみくじで凶が出た時に枝に結ぶのと同じことだったかもしれない。

未来への不安を打ち破り、希望をこめて。



どういう意図だったのかはただ想像するしかできない。
推測で真相に近づけた気がしても、絶対の正解にたどりつくことは決してできない。
それはすでに、失われた遠い過去のことなのだから。


ただ、考察材料を集めて自分の中での「納得」に近づけてゆくことはできる。

時にそこに、現代を生きる自分達との共通点を見つけ、古代の人々へ「共感」を覚えることもある。遠い過去を生きた彼らの体温や呼吸すら感じられるような気にもなる。

もちろんそれはただの錯覚や勘違いかもしれないが、そうした思考のタイムスリップもことのほか楽しいものだ。







なお、調べていて知ったのだが、飛騨地方にある神社は、塩竃金清神社と同じように縄文時代の遺跡が境内に残存しているケースが少なくない。
何千年も昔にルーツを持つ場所が、そのまま現代まで神域として維持され続けているというのは、なんというか壮大なロマンがある。

非常に想像力を働かせられて、自分は大好きだ。





教科書的には、

旧石器時代→縄文時代→弥生時代→古墳時代→奈良時代

と画一的に時代が進むけど、実際は地域ごとに、縄文と弥生が入り交じったり、祭祀も民族も縄文式だけど弥生人を受け入れて水田稲作もしていたりとか、いろいろなケースがあったはずだ。
実際、北海道や沖縄などはそれが顕著なため、独自の時代区分が設けられている。

北海道では 旧石器時代→縄文時代→続縄文時代→擦文時代→アイヌ時代

沖縄では 旧石器時代→貝塚時代→グスク時代

と続く。



だが、細かく見ていけば決して北海道と沖縄だけじゃなかったんじゃないか。





平安時代の税に関する公式記録で「飛騨人は一見して容貌も言葉も他国とちがうからいくら偽っても分る」と記されている。


飛騨は弥生時代・古墳時代を経ながらも、独自の縄文文化が上書きされないまま長く残り続けていた特殊な土地だったんじゃないだろうか。

たとえばもしかしたら、北海道のアイヌ時代や沖縄のグスク時代のように、「ヒダ時代」とも呼べるような、ひとときそんな「時代」があった……のかもしれない。






種蔵を発って……




時折、「星のオルゴール」が鳴る。
星の位置情報を利用して、決まった場所を星が通り過ぎたときにその星の光等級に応じて音を鳴らすコンピュータプログラムだそうだ。

星のオルゴール(music of sphere) - 飛騨市公式ウェブサイト




それが、この建物の裏に備え付けられたスピーカーを通して発せられる。
たとえばこんな感じだ。




どちらかといえば神秘的スピリチュアルな感じの音色なので、種蔵ののどかな農村風景と合っているかといえば、合ってはいないかもしれない。
けど不思議と邪魔でもない。
聴いていると自然と馴染んでくる、絶妙なバランスの音だと思う。



きっとあの夏、リリさんもここを訪れるたびに幾度となく聞いたことだろう。







種蔵はこの10年ほどで住む人が減って、使用されなくなった田んぼも増えてきているそうだ。

ここは斜面が急な土地だから、平らにするために石垣を築いて田んぼを作っている。
それが美しい棚田の風景を形成しているわけだけど、使われなくなった田んぼに関してはその土台である石垣も手入れがされなくなるので、やがて草やツタが覆ってしまう。


今はボランティアで草取り活動をしている人達がいるそうだ。


今回自分が訪れて感動した種蔵の風景。
それは、人のいとなみが産み出す機能美のようなもの。
ここに暮らしている人達がいるからこそ成り立っているものなのだとそんな当たり前のことにあらためて気付く。


ここに限らず、道も建物も田んぼも人の手が入らなくなれば数年かせいぜい数十年で土に埋もれ、緑に覆い尽くされてしまう。



当たり前のことすぎて忘れてしまわないように、心に刻みつけておこう。
そこに暮らす人がいるから、自分はそこを観光できること。






一時間くらいいた中で、観光客は自分一人だった。
遠くの棚田に作業中の地元の方の姿を見かけた以外は誰とも会うこともなく、ぜいたくすぎる時間をひとり満喫してしまった。

入れ替わるように別の観光客がやってきたので、自分はそろそろ出発することにする。





さて、次はどこに行こうか。

なんとなく地図をみると、今立っている道を山奥まで進んでいくとその先に「池ヶ原湿原」があるようだ。







池ヶ原湿原は風雨来記4の中でも特に印象的なスポットのひとつだった。
岐阜に湿原があることにびっくりした記憶がある。

日陽ルートの最終スポットでもあり、のひコン1位を目指す上でも重要な高評価記事ポイントでもある。




まだ昼下がり、時刻は14時前だった。
よし、次は池ヶ原湿原へ行ってみよう。

出発だ。





つづく。






余談:タンナカ高原の水


余談だが、種蔵の水源について調べている中で、種蔵から山を挟んで南側のタンナカ高原と呼ばれる地域に、「奥飛騨原水」と呼ばれる名水があることを知った。

ブナの原生林に降った雨が長い年月をかけてこの地域の特殊な石質地層で濾過されて湧出する、「めちゃめちゃ良い水」なんだとか。
単なる美味しい水というだけじゃなく水質や成分が特殊で、科学的な評価としては、奇跡の水と呼ばれるフランスのルルドの泉より酸化還元電位が低いのが特徴らしい。

要するに、「超くさりにくい」。
自然水にもかかわらず、汲んで三ヶ月くらいは放置しても劣化しないらしく、週末は他県からもたくさんの水くみ客が訪れて列ができるそうだ。


カルピスを割るのに使っても分かるレベルで美味しいんだとか…………ほんとかな?




すぐ近くまで行ってたんだけどなぁ……
また機会があればこの水、飲みに行ってみたい。






地形的に、もしかしたら種蔵集落に流れていた水と、水源は同じ山なのかもしれない。


そういえば、種蔵って元々タナクラって呼ばれてたんだっけ。
タナクラとタンナカ……名前の響きが似ている。
地図を拡大するとタンナカ高原から種蔵集落までは林道が通っていて、山を越えて往き来することもできるようだし、昔から何らかの関係があったのかな。





■予備資料

宮川町の縄文時代。

宮川町から富山湾まで。
引用:岐阜県吉城郡宮川村宮ノ前遺跡発掘調査報告書Ⅱ




これは平成初期の資料だ。
国道360号線を整備する際に発掘調査が大規模に行われ、旧石器時代から歴史時代にまで続く継続的な遺物が多数出土した。


4の●付近が種蔵だ。
ちなみに、3の●は「池ヶ原湿原」のある地域。

詳しい資料は「岐阜県吉城郡宮川村宮ノ前遺跡発掘調査報告書」で検索すると、公式ページにてPDFで読むことができる。


★4 宮ノ上遺跡 付近の地形

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