半年間ひたすらリリさんを見続けて思ったこと

母里ちあり

■ 風雨来記4をきっかけに始めたイラスト趣味に関する、個人的な備忘録です。
■ イラストは、投稿者(ねもと)による二次創作ファンアートです。

解像度について

解像度。
情報を、どれだけ細かく見せられるかの度合いをあらわす言葉。

風雨来記1が発売したころ――まだネットやPCがいまほど幅広く一般に普及していなかった20年ほど前は、「解像度」という言葉は、パソコンやカメラ、デザイン・印刷などで使う専門用語、「新しい言葉」だった。


この「解像度」という言葉が、「ある物事に対しての、知識の深さ・幅広さ・理解のクリアさ」を、一言であらわす俗語として幅広く使われるようになったのは、割と最近のこと。

これは非常に本質をついた言葉の使い方というか、元々概念としてはあったけれど既存の言葉では端的には言い表せなかった、かゆいところに手が届くような絶妙な表現だと思う。


たとえば、風雨来記4は、

朝のコーヒーシーンの解像度が異様に高い

と思う。

いやいやもちろん、バイク旅や訪れる土地への解像度は言わずもがなだけど、毎朝毎朝休日も欠かさず丁寧に繰り広げられるコーヒーシーンへの熱意とこだわりは特に、色んな意味で風雨来記4の忘れられない尖った個性だ。

スタッフどんだけコーヒー好きなんだよ、と。

おかげで自分も毎日コーヒー挽いて飲むようになってしまった。



イラストを描く時にも、解像度は大切。
解像度が低いと、拡大したり、近くで見たときに、ぼやけてみえる。

基本的には低すぎたらダメだけど、高ければ良いというわけでもない。
繊細で画面内の情報量の多い作品ほど、高解像度が必要になる。
そうでない絵なら、ほどほどが良い。


解像度があがるとより鮮明に、細かい部分が理解できる。でも、ぼやけている方が綺麗に見える部分もある。



リリさんの解像度


ここからが本題。

例によってリリさんについての話になるけれど、自分がリリさんのことを考えたり、書いたり、イラストを描くのは、ひとえに「リリさんへの解像度をあげるため」なのかもしれない。

どうして自分がこんなにも惹かれてしまったのかを考えて考えて、言語化したい。
より鮮明に感じたい。


何度か語ってきたことだけど、自分のリリさんへの感情の大前提には、「リリは面白い」「楽しい」「ワクワクする」がある。

母里ちありのシナリオを通じて、これまでの人生で感じたことがなかった、不思議なドキドキやワクワクが胸の中に溢れてきた。

自分の中の価値観が、音を立てて変わるのが分かる感覚というか。
これまで面倒くさいとか意味が無いと思っていたものが、面白そう、特別だ、と認識が反転する瞬間をリアルタイムに感じたというか。
そんな自分がまた、面白くて。
何歳になっても、心はこんなにも子供のように、動くことがあるんだと。

それからというもの、あのワクワクの正体が知りたくて、今もこうやって考え続けている。


そこに向き合うことで、自分自身が本当は何を好きなのか、この先10年20年と考えたときに何をやって生きていきたいのか、どうすればいつまでもワクワクし続けて生きていけるのか、などなどいろんな答えが見つかるんじゃないかと思っている。



それはそれとして、あまりに自分の中でだけ考え過ぎると、「解像度をあげていく」過程で時に、妄想が暴走して勘違いや間違いを拡大してしまう恐れもある。


たとえば、リリさんの出身地について、考える場合がそうで、


母里ちありは島根県の片田舎出身である。


これが、作中で提示されている唯一の情報で、どれだけ解像度をあげようとしたところで、実際に描かれている以上の情報は出てこない。


「たまに口にする方言を考えると、奥出雲の方なんじゃないか」とか、「母里姓の由来を考えると安来かな」とか、あるいはもっと遠く「邑智、美郷方面」かな、とか、あれこれそれらしく予想・考察はできたとしても、あくまで想像の域を出ることはないわけだ。


だから、「作中で語られていないけれど明確に設定されていそうな部分」は、なるべく自分の心の中でも曖昧にしておく、解像度をぼかしておく、ということを心がけている。


特に、今作のヒロインの出身地は、かなり詳細に裏設定されていると予想している。
柚原は飛騨を代表する姓だし、鵜瀬で鹿児島なら大隅半島が上がるだろう。
2の上原(=八重山を代表する姓)海琴と同じく、4のヒロインにはかなり地域性の高い姓がつけられているので、「そういうの」にこだわるスタッフさんがいるのだろう。
なので、おそらくリリさんの出身地も、市町村レベルで明確に設定されているはずだと思う。




あとはやっぱり、風雨来記シリーズだから、実際に旅をすること。
土地の空気を感じて、あの夏を現地で追体験することは、もっと彼女の解像度を高めることに繋がっていくだろう。
今年はきっと、岐阜へ行くぞ。


見ること、知っていく喜び。

「考えること」で解像度を高めていく方法とは別に、とにかくひたすら「見ること」によって上がっていく、ビジュアル面の解像度も自分にとってはもちろんとても重要だ。


自分の、母里ちありの第一印象は割とふわっとしていて、外見よりもむしろ、樹ちゃんや冬ちゃんを彷彿とさせるような、会話やシチュエーションの微妙な違和感、内面の方に注目していた。

初日と二回目で服や髪型が変わっていたことすら気付かなかったレベルで、「解像度」が低かった。

今は毎日、イラストを描くためにリリさんのスクショを見るたびに一日十回くらいは「やばい。可愛すぎる」と呟いてしまうくらいに、メロメロだ。




昨年夏以来、イラストの勉強を真剣に始めて知ったことだけど、「一枚のイラストを描く時」には、「描く」の何倍も「見る」ことが重要だ、というのがたいていの絵やイラストの技法書の頭に載っている、ごく基本的な考え方だ。

漠然と見るんじゃなくて、めちゃくちゃ集中して、細部まで細かく、あるいは輪郭を具体的に捉えて、とにかく色んな観点で「観る」こと。
「感覚」=エピソード記憶だけでなく、「知識・言語化」=意味記憶によって、脳内に明確なイメージを結んでいく。



人間は基本的に、目に入った情報を一瞬で処理・判断するために、漠然としたイメージで捉えている。
まるい、とか、あかい、とか、かるそう、とか、やわらかそう、とか。
かわいい、とかきれい、とかもそうだ。


たとえば、「ドラえもん」を知っていて、「ドラえもん」と「ドラミちゃん」を見分けることはできても、「何も見ずにドラえもんとドラミちゃんを描け」と言われて、完璧に描ける人はまずいない。

それは、プロの一線級で活躍しているイラストレーターでさえも、(よほど普段からドラえもんを書き慣れている人でなければ)参考画像なしには無理なのだ。

(例外的に、チンパンジーの子供や、人間の乳幼児は、「写真記憶」とか「直感記憶」と言う、まさに写真のように見た映像をそのまま記憶する能力を持っている。
成長と共にこの能力は失われるけれども、稀に、大人になってもこの写真記憶能力を持ち続けている人もいる)




絵を学び始めると、まず最初に、自分がこれまでいかに曖昧なイメージで世界を捉えてきたか、見ているようでいていかに観ていなかったのかということが分かって、結構衝撃的だ。

ドラえもんどころか、生まれてからずっと見てきたはずの、自分の手すら描けないし、構造もよく分からないのだ。

人差し指と薬指はどっちが長かったか。
小指の太さは他の指とくらべてどれくらいか。
親指はどこから、どっちの向きに生えていて、どういう風に曲がる?

なーんもわからない。



逆に言うなら、人間は、別に細かい部分まで子細に識別していなくても、一目見てばーんとイメージをつかむだけで瞬時に「これは○○」と認識している、ということだ。

日常生活における「見る」とはつまり、「雰囲気をつかむ」という行為だと言える。
「人の顔を見分ける」能力も、これに起因するものだ。

そう考えると、ものすごい特殊能力だと思う。



けれども、イラストを描く場合の「観る」には、人間のそうした「特殊能力」は使えない。

頭の中で思った通りに画像化できる「念写」の超能力でもない限りは、基本的に、普段の見るとは全く違う質の「みる」によって得た「客観的」な情報が、描くためには必要になるわけだ。




頭の形はまるめで、目はちょっと垂れ目のぱっちりで、瞳はほんのちょっと縦に長めので、大きな瞳には周囲の光がよく反射していて、眉は基本的にハの字で、―― まだまだ解像度が足りない、目の大きさや眉、前髪との距離とバランス、肩幅や頬の輪郭、自分は何をどう見て、どこを判断して、リリさんをリリさんと認識しているのか。

細かい情報を、ひとつひとつとにかく意識、記憶していく。
その繰り返しで、ちょっとずつ、ちょっとずつ、自分の中のリリさんの解像度をあげていく。


「知っていく喜び」。
最高に幸せな時間だ。


ファンアート(21年8月→22年2月) ほんの少しだけ解像度が上がったかも


ゲームプレイ中から顔はよく見ていたつもりだったけれど、それでも目元のメイクを認識するようになったのは自分の場合はかなりあと、秋以降だった。
屋外の日の当たる場所にいるとき、瞳に反射した光が頬の上部にあたってハイライトになっていることにも、つい最近気付いた。

もっともっと自分の解像度を高めていけば、きっとまだまだ色んなものが見えてくるのだろう。
楽しみだ。




まとめ

リリ。
日陽、垂。

見れば見るほどに、コタチユウ氏のキャラクターデザインは、情報量がとても多くて、丁寧で、細やかだと思う。

決して実写寄りのデザインというわけではないのに、実写背景に見事なまでにとけ込んでいるのは、ライティングやデッサンの高い技術力に加えて、デザインそのものに含まれる絶妙な情報量による部分も大きいだろう。

そして、そこから生まれる表情の多彩さに至っては、もう筆舌に尽くしがたい。



ファンイラストを描くために、イベントスチルや立ち絵のリリさんの表情ぜんぶを、差分含めて並べて確認したことがあった。
そのすべてに違う表情があって、笑顔ひとつとっても全部違って。
いくら見ても飽きることがないくらい、本当に情報量が多くて、生き生きしていて。


コタチユウ氏が風雨来記4のキャラクターを描かれていなかったら、自分はここまで夢中になれていなかったかもしれない。
本当に素晴らしいお仕事で、全てのシーンと表情、ひとつひとつが忘れられない宝物です。






個人的な要望
容量的な問題か360度カメラの画質にあわせた関係か、風雨来記4はイベントシーンの画像解像度が低めなので、いつか、「高解像度」であの思い出のシーンの数々が見られることを、密かに願っています。

コメント

  1. こう より:

    はじめまして!
    こういったブログには初めてコメントさせていただきます🙏

    『作中で語られていないけれど明確に設定されていそうな部分」は、なるべく自分の心の中でも曖昧にしておく、解像度をぼかしておく、ということを心がけている。』
    ここにとても共感できました!

    私は、柚原日陽メインで風雨来記4をプレイしましたが、やっぱり詳細な設定って好きなキャラほど知りたくなるものなのかなと思いながらプレイしていました。
    ただ、知りすぎてしまうと、それはそれで魅力が減ってしまうのかなとも…(笑)

    正直、風雨来記シリーズは初めてプレイしたのですが、ここまで面白いゲームだと思わず、柚原日陽に心酔していなかったらこのブログにも辿り着けなかったのかもしれません。

    風雨来記シリーズに感謝しながら、これからもブログを楽しみに拝読させていただきます!
    どうかお身体に気を付けて、これからも素晴らしいブログの更新をお願いします!

    読みにくい文章だったらスミマセン!(笑)

    • ねもと より:

      コメントありがとうございます。

      完全に決めつけずに少し曖昧にしておくことは、好きで居続けるための秘訣でもあると個人的に思います。
      それは考察に限らず人間同士の関係においても、他者を100%知ったつもり、理解したつもりにならないこと。
      すべては理解し合えないと自覚するからこそ、相手のことをもっと知りたいと、常に長く、尊重し続けていられるんじゃかと。

      風雨来記、素晴らしい作品ですよね。ファンとしてお互いこれからも楽しんでいきましょう。
      今後、日陽さんについての考察記事を書くこともあると思います。気が向いたら覗いてみてください。

タイトルとURLをコピーしました