リリさんの絵(~20230611)

母里ちあり





最近は、絵の方向性(どんな風にリリさんを描くか)とかテーマ(どんなイメージのリリさんを描くか)とか上達についてとか、色々なことに迷ってばかり。

絵に関する知識量が増えるほど、見る目も肥えてしまって、自分の絵の良くなった面よりも悪い部分ばかりが目についてしまう。
一向に、前に進めている気がしない。

でも、迷うことはきっと悪いことじゃない。



自分が絵を描く理由は、リリさんへの想いを形にするため。
描き上がった絵がメインではなく、その過程でリリさんをひたすら見て、リリさんのことを考えて、創意工夫して――その時間こそが一番大事だ。


迷っている時間は、リリさんについて考え続けている時間でもある。
この一歩、一歩もまた、いつか振り返れば自分だけの道になっている。
そう信じている。







たとえ話をしよう。
旅をしている中で、自分だけのとっておきの場所を見つけたとする。

それを多くの人と共有したいと思うか、ごく限られた人とだけ分かち合いたいと思うか。
それとも一人占めしたいと思うか。

どの選択をとるかは本人の性格や価値観だけじゃなく、その場所と自分の「関係性」にもよるだろう。
そしてそれは、場所に限らず、あらゆる出来事・情報にも言えることだ。



情報を広く共有することで喜びが広がったり、新しい思い入れが増すこともあれば。
不用意に他者と共有することで、価値や意味を「失う」場合だってある。




たとえば恋人や夫婦、家族など、特定の相手とだけ体験できる、人生において特別な瞬間がいくつかあるだろう。
もちろん世の中には「そういう場面」を不特定多数と共有したいと思う人もいるだろうが、比較的少数だろう。


ネットが発達した現代においてもなお、未だほとんどの人間にとって「本当に重要なもの」というのは、「あえて共有したいとは思えない」あるいはもっと強く「共有したくない」ものなんじゃないかと自分は思うのだ。


本当の本当に大切なものほど、自分と大切な人だけの思い出にしたい。
そんな風に考える人は多いんじゃないだろうか。







……というわけで、他人に見せたくないくらいに可愛い表情のリリさんを描けたときや、その瞬間瞬間の想いを無心で描き出したラフ絵などについては、これは自分だけの独り占めにしてしまうことが多い。
自分の中での「リリさんの絵」の立ち位置はもう、プレイベートな家族写真に近いかもしれない。

描くこと、思い出を残すことそのものが目的。
あとからたまに、見返して懐かしめたらそれで幸せ。

――そんなわけで、ここも含めてネットに載せる絵は、基本的に「ちょっと余所行きの絵」という位置づけにしている。





絵に限らず、社会と言う場においてはだいたい「自分のできることと求められることは違う」というけれど。
自分の描きたいものと、共有したいものが重ならないと、世に出す表現たり得ないんだと最近思う。



いつか自分が、心から「自分にとっての最高の一枚」と言えるような表現をすることができたなら。

自分はそれを誰かと共有したいと思うんだろうか。
それとも独り占めしたいと思うんだろうか。


それは……そのときにならないとわからないだろうな。


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