雪の京都伏見稲荷を旅して

旅日記
四条通り。
四条河原町
祇園・八坂神社手前
四条大橋



以前通勤路でもあった四条界隈。
歩道も車道も真っ白。


老若男女問わず、大きなカメラで撮影している人が多かった。
大雪のあとの晴れ間。

京都で写真を撮る人にとっては、本当に、十年に一度あるかないかの貴重な風景だから、そりゃみんな張り切るよなぁ。





子供心に夢みた光景

京都のまちなかには滅多に雪が降らなかった。


年に一度、降ってせいぜい数ミリか、数センチ。
それも数時間ともたず融けてしまう。

子供の頃からずっと、テレビで見た雪国の、一面真っ白な世界に憧れていた。











10歳くらいまで、京都市の伏見稲荷の山のふもとで生まれ育った。
物心ついた頃からずっと、「雪」に強い憧れがあった記憶がある。



京都市は、丸くて低い山々に囲まれた、「夏は暑くて冬は寒い」典型的な盆地気候だ。

真夏は連日35度、市の中心部では最高気温が38度まで上がることが珍しくない。


一方、冬の気温は寒波が来てもせいぜい氷点下になるかならないか。
ただ、「底冷え」と言って、足下から熱を奪われ続けるような、微妙な湿気をともなう嫌ーな寒さがある。
数値にあらわれない種類の寒さとも言える。

北海道から来た旅行者が「京都の方が寒い」と言うのはよく聞く笑い話。


北海道は外の気温が命に関わるレベルで低すぎるために、常時暖房かつ建物の断熱が追求されていて、屋内に入るとめちゃくちゃ快適で温かい。ちょっとお出かけスタイル=Tシャツ一枚の上に分厚いコート、という人も少なくない)


とはいえ、「底冷え」はあくまで体感温度。

実際の最低気温はせいぜい3度とか4度くらい。
年に一度か二度、氷点下になれば珍しいという程度だった。




子供時代は、通学路の水たまりや、家の前の水を溜めたバケツにたまーに氷が張ったくらいではしゃいでいた。
雪がちらついたら大騒ぎ、ほんの数ミリうっすら積もろうものならもう一大イベントだ。

必死でかき集めて、小さな雪だるまをやっとひとつ完成させて、大満足だった。



「吹雪」とか「中に入るとあたたかい『かまくら』」とか、「ホワイトクリスマス」とか、ぜんぶテレビの中の別世界の話だった。

冬が来るたび、いつも、いつも、思っていた。


「雪、降らないかなぁ」
「積もらないかなぁ」


ちょっとやそっとじゃない。
テレビの中の雪国みたいに。
かまくらが作れるくらいに――――




その後、スキーを体験したり、雪国に暮らす機会があったり、真冬の北海道を旅行したり、真冬の雪国でキャンプ旅行したりと大雪を体験する機会はたくさんあったから、ある意味子供の頃の夢は「いつの間にかかなっていた」と言えるだろう。



そんな夢を持っていた時代があったことさえ、いつからかすっかり忘れていた。





2023年1月24日から25日。
全国的な大寒波の最中、京都市内にも大雪が降った。積もった。

実は、10年ほど前にも似たような大雪があった……らしい。
らしい、というのはその頃の自分は、子供の頃の憧れなんて忘れていて、わざわざ寒い日に出かけようとは思わなかったのだ。
外の様子すら見ていなかったと思う。


だが、リリさんと出会って一歩踏み出す勇気をもらった今の自分は、そんなもったいないことはしないのだ。
童話の、庭を駆け回る犬のように、家から飛び出した。





――見慣れた日常が、まるで見たことのない別世界のようだった。
ちょっと別世界過ぎたかもしれない。


子供の頃夢見ていた大雪は、もっとファンタジックで情緒あるものだった気がする。
ふわふわ、しんしんと降り積もるような。

そんな生やさしいものじゃなく、真冬の日本海で体験したような、息するのも苦しい吹雪によって、見る間にどかどかと雪が降り積もっていく。

こんなん子供の頃に見てたらトラウマになってたぞ。



あちこちで、車やバスが立ち往生。
路面標識も車線も横断歩道も、雪で何も見えない。
歩道と車道の境界も曖昧だ。

JRは止まるし、そこら中で歩行者が足を滑らせるし、雪かきの道具なんてないから多くの家が雪解けを待つだけ。

普段積雪や凍結と縁のない土地に、突然大雪が来るとこうなるのか……と少なからず恐怖を感じた。




短い時間の中だけど、いろいろな場所に言って色々な「雪の京都」を見てきた。
そこで思ったことは、大きく分けてふたつ


ひとつは、すでに書いたように、「見慣れた風景が全く別の場所に見える」体験。
雪が十センチ降り積もっただけで、見慣れた場所が見慣れない場所に感じた。
これはすごく新鮮な体験だった。


そしてもうひとつ、こっちが自分にとって特に面白かった体験で、「距離的には生活圏内にある身近な場所だけどこれまで訪れたことがなかった」ところにはじめて訪れた際に、「あれ、俺今どこにいるんだっけ?ここは一体どこだ?」と脳内で知識と感覚がバグを起こしたこと。



この記事では、主に伏見稲荷大社で撮ったいくらかの写真と共にもう少し具体的に、書き残しておこうと思う。




伏見稲荷へ

JRは運転見合わせ

朝日を背に、雪の上に長く伸びる鳥居の影がなんだかグッと来た。
テンションが上がって寒さも吹き飛ぶ。

麓でお参りだけ済ませて帰るつもりだったんだけど、つい山頂まで行ってみたくなった。
この積雪で、いったいどんな風景が待ってるだろう。


ここだけを見ると、まるで山奥の雪国に来たようにも感じられるけど、京都駅から5キロも離れていない。



自分にとっても、昔住んでいた場所のすぐ近所。

此の近くの雑木林でよく虫捕りをしていた。
セミの幼虫を捕まえて帰って、羽化するのを観察したことを思い出す。

子供の頃の自分が暮らし、遊んでいた場所と、今日の一面雪の風景が結びつかなった。



山頂とチャートとタケノコ

伏見稲荷大社の奥の院がある稲荷山山頂を目指す。
なんとなく普段通らない道(伏見神寶神社ルート)を選んで寄り道しながら歩いていたら、とてつもなく巨大な岩が祀ってある場所に辿り着いた。

「大岩さん」



大国主と饒速日命を祀っているらしい。
巨大な磐境いわさか(神社の原型)。



「出雲」と、稲荷神社を建てた秦一族の関係は調べはじめるとものすごく奥が深い。
今年の目標のひとつはそういう話をまとめる新しいブログを作ること。
そして、夏には実際に出雲を旅すること。


今日のこの「大岩さん」との出会いも、ひとつのご縁かもしれない。



さらに山頂を目指す。

このあたりから、自分が今いる場所がどこなのか曖昧になってくる。
まるで、遠い県の山奥を歩いているような。



京都駅から5キロ
京都駅から5キロ




はじめて通る道で、雪のない状態を知らないから、頭がバグってしまうのだろう。

理性ではここは京都の伏見稲荷だと分かっていても、感性は目の前の風景をそのまま受け入れて、「ちょっとした冬山散策」をしている感覚になっている。


知っているようでちょっと違うパラレルワールドを歩いているみたいな、ふわふわした気分。





山頂に近づくと、ゴツゴツした硬く尖った石が増えてくる。
なんか見覚えある気がして、妙に意識がひかれた。






これって、岐阜の金華山で見たチャート(深海プランクトンの化石地層)に似てるような……



2022年夏の岐阜、金華山(稲葉山)




帰ってから調べたら、本当にチャートだった。
稲荷の山頂付近はチャートに覆われているらしい。


稲荷山・四つ辻の「チャート岩」



雨風にさらされる山頂付近では砂岩や泥岩は浸食されて麓へと流されていき、硬いチャート「が」残ったのだろう。


だからか、そういえば、麓の方には竹林が多かった。
良質のタケノコを育てるなら、地中に水分を保持してくれる粘土質の土壌が良い。

「稲荷山のタケノコ」は洛西と比べると知名度は高くないけれど、かつて北大路魯山人が絶賛した記録が残っているほど質が良かったそうだ。






どうも、似てるというレベルじゃなく、岐阜の金華山と京都の稲荷山のチャートは「同じ」ものらしい。


「美濃-丹波帯」と言って、同じ時代――中生代ジュラ紀に形成されたひとつづきの「コンプレックス(様々な地質の集合体)」なのだそうだ。

人間の感覚からしたら遠く離れた場所だけど、地質的にはご近所みたいなものなのだろう。

思わぬところで、岐阜の旅と京都の旅がつながってしまった。
こういう点と点がつながる感覚が自分は最高に好きだ。





カメラ

撮影はいつものスマホ。


今日の写真はいつもよりも、なるべく頭を使って考えながら撮ったので、かなり疲れた。


過去の記事でも書いたとおり、今まではできるだけ一枚の中に情報を詰め込むことを目的に「記録としての写真」を撮ってきたけど、これからは絵を描くように、「何に心動かされたのか、何を見る人に伝えたいのか」を意識して、「できるだけ考えながら撮る写真」にも挑戦するつもりだ。


あらためて、写真撮影一年生になったつもりで、カメラについても学んでいきたいと思う。
カメラを撮って、絵を描いて。
そうした先に、自分なりの表現の道を見つけたい。


欲しいカメラも決まったので、近々手に入れる予定。
すごく楽しみ。




一期一会の風景

通りすがりの旅行者を見ていた限り、圧倒的に外国人観光客が多かった。
平日ということもあってか、日本人と外国人の比率は、30:70くらいだったように思う。




遠い国からの旅。
きっと彼らのうちほとんどの人が、一生に一度の京都旅行、一生に一度の伏見稲荷だろう。


自分の足でその場所に訪れてはじめて体験できるもの。

そんな一度の風景が、雪景色として記憶に残っていく。
彼らにとってはそれが唯一の「伏見稲荷で見た景色」として記憶に残っていく。


一期一会。



すぐそばで生まれ育って、その後も何十回と通って、それではじめて今日の光景を見た自分としては、なんだかちょっと不思議な感覚だ。

羨ましいような、素敵なものを共感できたような。



心から、彼らの今回の旅が良い旅になりますように、と思う。
いい思い出になりますように。










今回の記事は、このへんで。

コメント

  1. 水洋日 より:

    こんにちは、久しぶりのコメント失礼します。

    先日の大寒波、西日本を中心に色んな悪影響が出た反面、素晴らしい風景も拝めたようですね。

    私自身、京都伏見稲荷はちょうど昨年夏に訪れていて記憶に新しいのですが、雪が降るとまた違った風情が感じ取れますね。
    特に千本鳥居の写真を見て、京都のようで京都でないような不思議な感覚になりました。

    雪の中での散策、お疲れ様でした。

    • ねもと より:

      こんにちは。昨年、京都伏見稲荷を訪れていらっしゃったのですね。
      場所によっては雪が未だに融けないままで、京都でここまで雪が残るのは自分の記憶する限り生まれてはじめてです。
      60年以上京都の街中で暮らしている知り合いのご婦人も「うちの軒先につららができたのははじめて見た」とおっしゃっていました。
      「いてもたってもいられなくて東京からカメラを手に飛んできた」というカメラマンの人もいらっしゃいました。

      京都のようで京都でない、今見られている景色は、文字通りそうなのかもしれません。

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