この記事では、2026年夏に行った島根(及び周辺地域)一周ツーリングの模様を時系列でまとめていく。
今回は「いつもとは違う道を選んでみよう」と考えて、日本海側を走るいつもの国道9号線(旧山陰道)ルートではなく、ひたすら山間部を突っ切るルートを走ってみた。
↓いつものルート(日本海側)
↓今回通ったルート
この山間部ルートで9号線ルートと一番違うと感じたのは「沿線施設の少なさ」だった。
途中途中、比較的大きな都市と交差するので不便とまではいかないものの、そうした都市と都市の「間」は、ガソリンスタンドやコンビニなどがない区間が長かった。
50キロ以上商店ひとつないエリアもあり、時間帯によっては100キロ以上無給油走行になる可能性もあるので、燃費が悪い車種で走る場合はちょっと厳しいルートかもしれない。
また、このルートでは「道の駅」も見かけなかった。
たぶん多少南北に逸れればあったのかもしれないけれど、少なくとも自分が今回走った中では道中全くと言っていいほど見かけなかった。
京都の亀岡以降では、300キロくらい走ったあとの岡山「道の駅・鯉が窪」が初見だった。
道路沿いの、トイレ付きのちょっとした休憩施設でさえあまり見なかったので、この山間部ルートはそもそも長距離ドライブやツーリングを想定されて敷かれていないんだろう。
そのため、意識的に休もうと思わなければ休憩なしで延々と走ってしまいがちだった。
よくよく考えてみれば、山陰の9号線や山陽の2号線はどちらも近畿から中国地方を横断して九州の入り口までを結ぶ、古代からの「大街道」だ。
一方、今回走った道は地域の街道や生活道路、広域農道など「短い路線の繋ぎ合わせ」であって元々一本の道じゃない。
道それぞれの管轄とか用途目的が違うから、長距離移動を想定した幹線道路の沿線とは様子が違って当たり前。
実際に走ることでそうした気づきがあったのは、今回の旅の収穫のひとつだと思う。
ちなみに、今回選んだルートは下道こそ長距離移動に不便なつぎはぎ路線だが、ほぼ並走して開通している「中国自動車道」を使えば最短距離で西日本を駆け抜ける最速ルートとなる。
京都から下関までの所要時間は6~7時間。
朝に京都を出れば、昼には九州に到着できる。
今後また利用する機会もあるかもしれない。
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1日目 京都を出発
8月某日。夜明けとともに、京都を出発。
京都市内から西へ。
丹波の山奥を走っていると日が昇ってきた。

田んぼに等間隔に植えられている木々が綺麗で足を止めた。
普段通らない道。走り慣れた亀岡に、こんな風景があったのか。
(余談だがここでiPhoneがスマホホルダーから落ちてバイクで踏みつぶしそうになるというトラブルがあったが事なきを得た)

この並木は、「稲木」「稲架け木」と言って、収穫した稲をかけて乾燥させるために植えられているもの。
木陰の休憩スペースともなり、木材としても重宝し、江戸時代にはこれによって田んぼを小さく見せて税を軽くする「知恵の木」とも呼ばれていたそうだ。
亀岡のどこかに稲木が立ち並ぶ風景があるという話だけは知っていたけど、目の当たりにしたのははじめてだ。
この稲木は地方によって形態や使われる木の種類が違うので、旅する際には注目すると地域色があって面白い。
亀岡では「ハンノキ」が使われるそうだ。
これはシラカバなどの仲間で水辺を好む性質があるので田んぼと相性が良いという。
北陸ではより大きな「トネリコ」類が多く、特に新潟のはざ木並木は有名だ。
島根では生木ではなく、材木を組み立てた「ハデ」という稲架け木を使う。
特に温泉津では昔から、秋になるとヨズク(ふくろう)に見立てた「ヨズクハデ」というものが作られるそうで、一度見に行きたいとかねがね思っている。

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朝四時の出発から朝食休憩や給油を挟みつつ、走ること3時間。
兵庫県も西の端が近づいた、神崎郡福崎町。
ルートを確認するために立ち上げた地図アプリで、目をついた文字列があった。
「妖怪ベンチ 河童」
なんだこれ。
もう少し詳しく調べてみるとやけにリアルな造形の河童を写した写真がたくさん出てくる。

なぜこんなところにカッパが……?
なんだかよくわからないけど、ちょうど道の途中にあるので確認してみよう。
民俗学的妖怪町おこし










案内に従って辻川山公園という施設の駐車場にバイクを停める。
周辺の掲示板や説明板を見て回って、なるほど。合点がいった。
いや、よくよく考えてみれば納得いくようないかないような、うまく言いくるめられているような…………そこも含めてともかく興味深い事例であることは間違いない。
端的に言えば、
この福崎の町は、民俗学で有名な柳田國男先生の生誕地である。
柳田國男先生と言えば民俗学、遠野物語で有名である。
遠野物語と言えばカッパだ。
だからカッパで町おこししよう。
ということのようだ。
柳田國男は著書の中で「私の生まれ育った家は日本一小さな家であり、あの家で生まれ育ったことが後の民俗学研究につながっている(意訳)」と言うようなことを書いており、この土地で育ったことそのものが柳田國男の民俗学に深い影響を及ぼしていると言ってもそう過言ではない…………のかもしれない。
そうしてこの町おこしはなかなかの成功を収めているようだ。
訪日客増加率県内一位という記事も貼ってあった。


この一見とんちのような町おこしの成功の秘訣はズバリ、「妖怪たちのリアルかつグロテスクな造形や世界観作り」があるのだろう。
鳥取の境港は水木しげるとタイアップして「妖怪ロード」で町おこししているが、あれはどちらかというと「水木しげるの世界観や、マンガ内のキャラクター性」を重視したもの。
それに対してこちらは生々しいというか生臭そうというか、子どもが見たらトラウマになりそうというか。
好き嫌いは別として、「怖さ」というのは良い意味で記憶に結びつく強烈なインパクトがある。
自分も小学校低学年の頃、近所の池に「子供だけを引き摺り込むカッパがいる」という噂があって、その池の近くを通る時はいつも全力ダッシュしていたことを今でも強く覚えている。





この町では、水木しげるロードのようにコミカルで親しみやすい妖怪キャラクターとは真逆の、生々しくリアルっぽい、気持ち悪さや怪しさ、グロテスクさを持つ妖怪の原風景的魅力を全面に押し出すことで差別化に成功したようだ。
こういうノリ、ダメな人はダメだろう(自分もどちらかといえば苦手だ)けど、意外と好きっていう人も多い印象がある。
お化け屋敷やホラー映画の人気と通ずるものがあるのかもしれない。
掲示板に貼ってあった新聞切り抜きによれば外国人ウケも良いようで、インバウンド集客率が高いのだとか。
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あたりを少し散策してみると、この場所は高台にあるようでなんだか眺めが良い。

ついつい上へ、上へと登ってしまう。
公園の上には、柳田國男の生家や記念館の他、立派な神社が鎮座していた。



幼少期の柳田國男が遊んだという神社の隅には「展望台」の文字を発見。
早起きして出発したぶん、まだ9時にもなっていない。
せっかくなのでてっぺんまで登ってみよう。



背たけの低い山々に包まれた横長の風景に心が安らぐ。
住みやすそうな町だ。
展望台のとなりには、階段付きの建物もあった。
こっちにも登ってみよう。



良い天気だ。
旅のはじまりとしては良い感じじゃないだろうか。
残念ながら、リリさんと休日に訪れるには島根から遠すぎるからか、展望を写すカメラのファインダーの先にリリさんを想像することはできなかった。
ならば少し想像のアプローチを変えてみよう。
リリさんは妖怪とか好きだろうか。
ここの妖怪はどうだろう。
けっこう面白がりそうな気もする。
町内には多種多様な、生々しくも面白い妖怪ベンチが多数あるそうで、ネット上でもよく話題になっているそうだ。(砂かけばばあベンチや山姥ベンチは特に必見)
それに興味を惹かれて「今度の休みに行ってみよう」と言い出す……そんな展開もあるかもしれない。
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このあたりは銀山からの交易ルートになっていたそうで、観光用に整備されている途中のようだった。
妖怪での町おこしの成功もあってか、かなり意欲的に、古き良き時代の遺産を活かしつつ令和の時代にあった観光地化を進めているように思えた。
また来て、のんびり歩きたいと思えるすてきな空気感の町並だ。

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周辺をひとまわりして、駐車場のある公園に戻ってきた。
ところで、この公園には、時間ごとに「河童」や「天狗」が出没するらしい。


ガジロウというカッパがこの池に出没するようだ。
居合わせたおじさんの話によると、現れるのは「一瞬」らしい。


水底に見えている河童の「お皿」の上をコイやメダカが行き来している。
なんともシュールな光景だが、出現時刻が近づくとそこから急激に泡があふれてきた。



マジで一瞬である。わずか10秒。
毎時0分、15分、30分、45分と15分おきだから割と簡単に見られるな、レア感ないなと思っていたけど、これは意外とみるのは大変かもしれない。
時刻もぴったりではなくちょっとずれがあるし、まだ大丈夫とよそ見したりトイレに行ったりしてるとあっさりと見逃してしまうだろう。
一時間にたった40秒の邂逅。
このタイミングが重要な感じ、これもまたUMAとの遭遇を演出するための、ツボなのかもしれない。
無事目撃できてホッとした。
せっかくなのでもう一体、天狗も見ていこう。

……予定時刻になっても一向に現れない。
居合わせた人と、「天狗も夏休みなんですかねぇ」と笑い合った。
ところが、それから数十分経過してまたここを通りがかると、天狗が突然登場した。
こいつは河童よりも登場時間が長そうだ。


公園で遊んでいた子ども達の反応は、「おー……」「へー……」という感じ。
リアクション薄く黙々とリアル造形の天狗を見上げる姿がこれまたシュールだ。

この天狗は柳田國男宅にイタズラしようと入り込んだところ本人に見つかってしまい、とっさに「腹が減っていた」と供述。かわいそうに思った柳田先生がもちむぎとどら焼きをあげたところたいそう喜び、それ以来こうして、もちむぎ(この町の名産品)とどら焼き(同上)をみせびらかすようになったというエピソードを持つ。
もちろんこれは町おこしのためにつくられた100%創作だが、もしかするとこの先何十年何百年たてば事実関係が曖昧になって、柳田氏存命時からあった伝承と混同される日も来るかもしれない。
それもまた、民俗学。
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調べてみると、この「妖怪町おこし」。
小川知男さんという一人の公務員が生み出したものだそうだ。
池のカッパや逆さ天狗、妖怪ベンチの妖怪たちも、小川氏自ら原型デザインしたもの。
小川氏は地方公務員であると同時に造形作家としても活動しており、2013年に新設された地域振興課に配属された際に町長から「池から出てくるカッパを作って欲しい」と指示されたことが「妖怪町おこし」のはじまりだった。
町長側が、当時すでに町の公式キャラクターとして存在していたかわいいカッパ「フクちゃん&サキちゃん」のようなゆるキャラ的カッパを意図していたことは分かっていたものの、小川氏は「ゆるキャラ文化が定着している今だからこそ気持ち悪さやリアルさを追求したキャラクターが人を呼ぶはず」という確信のもと独断でリアル路線カッパの制作を進めたのだという。
完成後、周囲のネガティブな反応を「これは絶対に人が来るから」と押し切って設置したところ、ゆるキャラとはひと味違う「きもキャラ」を一目見ようと大勢の観光客が押し寄せるようになり、これをきっかけに妖怪ベンチの設置や妖怪造形コンテストの開催、お土産用妖怪プラモデルの製作など、妖怪による大々的な町おこしにつながっていったそうだ。
残念ながら小川氏は2021年に亡くなっているが、彼が命を吹き込んだ妖怪たちは今も、多くの観光客を呼び込んでいる。



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カッパは民間伝承に登場する存在の中でも、鬼や天狗と並んで代表格の一角を成す存在だ。
以前遠野を旅した際、「カッパ渕」という有名観光地でかっぱ釣り名人から「遠野のカッパは、飢饉の時に口減らしのために川に流した子ども達の象徴であり、形を変えても元気に生きてほしいという親たちの願望だ」という話を伺ったことがある。
日本全国を旅していると、北は北海道・南は九州まで地域ごとに風貌や神話的性格の異なる様々な河童たちと出会うが、それぞれの地域ごとに、カッパが生まれた理由やそこに込められた歴史や伝承が違う。
だから伝承されるカッパの性格も、子どものように無邪気なものであったりどこか憎めないひょうきんなもの、ある種の神格的要素を持つものもあれば、まさに妖怪的なほの暗く恐ろしいものや、やたら好色なものまで多種多様。
その造形も、カワウソなど水辺の動物の化身であったり、川辺に暮らした人々をモチーフにしていたり、水難や川が持つ妖しさや怖さという概念そのものの擬人化であったりと様々だ。
このブログがテーマにしている風雨来記と河童の原型ともいえる旅ゲー「みちのく秘湯恋物語」は文字通りみちのくが舞台で、遠野のカッパ渕が登場したし、風雨来記4でも岐阜の河童堂が取り上げられていた。
そういう意味でも、ここで新時代のカッパたちと出会えたことも今回の旅のはじまりとして縁深いものだったと言えるかもしれない。



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山奥ひまわり畑
再び走り出し、兵庫と岡山の県境に近い山間部へ入ったところで、道の脇に「ひまわり畑」の文字が見えた。
「ひまわり畑を歩くリリさん」を想像してしまい、思わずバイクの速度を落とし、駐車場へと入ってしまった。
ここは佐用町の漆野という地域らしい。
駐車場にはけっこう車が停まっていてにぎわっている。
協力金は任意らしい。
大人一人三百円。







川の大きく曲がりくねったところに出来た平地を利用したひまわり畑だ。
背の低めの(とは言っても小学生の背丈くらいはある)、可愛らしいひまわりが一面に咲き誇っている。
千や二千ではないだろう。ものすごい数だ。これは見応えがある。




印象的な「DO SAYO」のモニュメント。
佐用町が設置している移動式モニュメントで、「どう?佐用」と「佐用で何かやってみよう!」の意味を兼ねているそうだ。
文字通り移動式なので、町内にあるその時どきのオススメスポットに設置されるという。
インターネットで「DO SAYO」と検索してみると、本当に色々なスポットに設置されている画像が並んでいて感心してしまった。
確かにどれもとても良い風景で、逆に言えば、このDO SAYOモニュメントを追いかけて行けば、佐用町のまだ見ぬ絶景と出会えることになる。
きっと実際にそうやってこのモニュメントとともに佐用を巡っている人もいることだろう。
これはなかなか面白い試みだ。

ひまわり畑では、子供も大人も、みんな笑顔で楽しそうだった。
ひまわりの持つ「黄色」というカラーが、心をウキウキと引き立ててくれているんだろうと思う。
ひとしきり鑑賞し歩いて駐車場に戻ってくる。
受付で協力金三百円を支払うと、記念品としてひまわりのタネをいただいた。
そして、こんな一言が。
「よかったら、この道の上のほうにも、ひまわり畑がありますのでどうぞ」


先をちょっぴり急いではいたけど、せっかくなので行ってみることに。

黄色い旗を目印に進んでいく。
さきほどのひまわり畑にはあんなに賑わっていたのに、こちらは道中人っ子一人いない。
結構距離があって、さらに登り坂。
バイクで行けば良かったと少し後悔する。






おー、先ほどの畑とはまた違う雰囲気。
ひまわりの向きが道路とは真逆なので、畑の隅を通って花の正面へとぐるっとまわりこむ。




良い感じだ!
さっきのひまわり畑もよかったけど、個人的にはこっちの方が好きかも。
なだらかな山々を背に咲き誇る段々畑のひまわり。
ありそうで見かけない構図で、面白い。
ひまわりの黄色が山の深い緑色によく映える。
家の畑の片隅にひまわりを植えるリリさんを想像してしまった。
次にリリさんの夏の絵を描く時は背景の奥に、きっと大輪のひまわりが咲いているだろう。
幸か不幸か、こんなに素晴らしい光景なのに、自分以外誰もいない。
あとで案内の人と話してみると、ここのひまわり畑は今年から始めたためにまだ導線がうまくできておらず、ほとんどの人が先ほどの河辺のひまわりだけ見て帰ってしまうのだそうだ。
非常にもったいないが、来年以降、徐々に口コミでこっちのひまわり畑も知られて人でにぎわっていくいくことだろう。
今回は独り占めできて幸運だった。
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不思議なことに、滞在中一時間以上ずっとこのひまわり畑のある場所は日が陰っていた。
空全体は青空なのに、この上だけずっと太陽に雲がかかっていて直射日光を遮っている。
この後ほんの数キロ南へ移動して山間部を抜けたら、急に雲がなくなって強い日差しが降り注いだ。
そこにも大規模なひまわり畑があったのだが————




こちらは完全に見ごろを終えて枯れ、みんな頭を垂れていた。
ほんの数キロの距離でこの違い。
おそらく先ほどの場所は、地形などの関係で雲が生じやすく、また山に囲まれているせいで日照時間が短いんだろう。
だから気温が比較的低めで、ひまわりの開花も遅くなる。
最初の島根旅でも、ひまわり畑を楽しみにして行ったらどこもすっかり終わった後だったっけ。
平地では7月いっぱいまでが見ごろで、8月中旬だと遅すぎたのだ。
ということは、島根でもここと同じような山間部なら今もひまわりが咲いているかもしれない。
この旅でもどこかで出会えるといいな。
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そんなこんなで岡山県に入った。
島根まであと少しだ。





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鯉が窪湿原



あのUFOみたいに特徴的なかたちの山は「あらとやま」というらしい。
とても登りやすく整備された山で、地域で親しまれているそうだ。
形だけじゃなく、この形になった理由も、プリンに似ているのが面白い。
この山は火山噴火で生まれたそうで、マグマが噴出して冷え固まって台地を作った。
この台地が年月と共に削られて無くなったのだが、台地の中身の、かつてマグマの通路だった部分は浸食されずに残ったため現在のような面白い形が出来上がったという。
台地がプリンの型、マグマの通路がプリンといった感じ。
見た目通りとても登りやすい、地元で親しまれている山だそうだ。

道ばたに不意に、「鯉が窪湿原」の案内が出てきた。
名前と存在は知っていたけど、このルート上にあったのかと驚いた。
ここは、去年の旅で出会った人に教えてもらったスポットだ。
「出雲の弥山」や「大山の滝」などオススメスポットをいくつか聞いた中に、この湿原も入っていた。
世界最小級のトンボ、ハッチョウトンボ(1円玉サイズ)が見られる場所だそうだ。

島根県には湿原がないらしい。
ごく小規模な湿原的地形や、湿原と表現されることもある赤名湿地はあるけれど、厳密な意味での「湿原」は無いのだそうだ。
一方で、中国山地をひとつ越えた山陽側にはいくつかの湿原がある。
岡山県新見市にあるこの「鯉が窪湿原」もそのひとつ。
地理的には、安来市伯太の母里から60〜70キロほど南の山間部に位置している。
島根はもう目と鼻の先だけど。
ちょうどルート沿いだし、ここは立ち寄ってみよう。
もうすぐ日が暮れるから今回は手短に。(フラグ)





ビジターセンター前のポストに協力金(300円)を入れる。
小銭が足りなくて全部集めても二百数十円しか手持ちがなかった。全部投入。
QR決済ができれば助かるんだけど…………次来た時に差額を支払うということで今回は許してもらおう。
ひとまず木道を進んでいくと、すぐに大きめの池が見えてきた。



鯉がたくさん泳いでいる。
人によく慣れているようで、大口をパクパクさせながら水際に寄ってくる。
「大自然に囲まれた湿原」をイメージしてきたが、なんだこりゃと一瞬ガッカリする。

そんなガッカリ感は、湖岸を少し歩いてすぐ解消された。
ああそうか、なるほど。
この池は、あくまでも湿原の「副産物」なのだ。
湿原から流れ出る水。
それを堰き止めて作られた農耕用のため池。
それがこの「鯉が窪」というわけだ。
湿原の下流にあるから、この池に鯉がいても上流の湿原環境には影響しないのだろう。
……ということは、このでかい池の反対側まで行かないと湿原に出会えないわけか。


けっこう鬱蒼としているところもある。
きちんと整備されているので歩きやすいけれど、これだけ緑が濃いとクマに出くわさないかがちょっと怖い。
ときどき大きな声をあげて自分の存在を知らせながら歩く。




人工的なため池とは言え、湿原の水が流れ込んできているからか「山の澄んだ水」とはちょっと違う、やたら栄養豊富で濃厚そうな水が鏡の湖面を作っていてとても綺麗だ。
びっしりと群生するじゅんさいとのコントラストもよく映える。
池の反対側まで到達すると、やはりそこが湿原になっていた。
湿原を象徴するような木道がいくつも分岐しながら伸びている。
池に比べるとこじんまりとした湿原だけど、伸び盛りのワイルドな草本のところどころに花が咲いていて綺麗だ。
花の盛りの季節は過ぎているようだが、道中あちらこちらに山野草の花が咲いていた。
名前は全然わからない。








早足で巡ってもあっという間に一時間以上過ぎていた。


湿原の隅っこで、「油のようなもの」を見つけた。
ネットではしばしば農薬だとか工業薬品の流出だとかで騒がれるけれど、これは鉄バクテリアの一種で、れっきとした生き物の生成物。
これが大量に蓄積して時間を経ると、褐鉄鋼という鉄鉱石になる。
北海道や愛知県では「高師小僧」という名前で国や県の天然記念物とされている。
一説に寄れば、この褐鉄鋼は古代日本において青銅器の伝来以前から最古の金属「すず鉄」として使われていたという。
不純物が多く脆いので青銅器よりもはるかに実用性は低いが、縄文時代の炉の火力でも成形可能。
「葦原の中つ国」と呼ばれるほど湿地の多かった古代日本では至るところでこの褐鉄鋼が産出されたと言われている。
とはいえ通常の鉄よりもずっと風化しやすいために現代まで残ることがなく考古学的な証拠は今のところ見つかっていない。
そんなロマンあふれる鉄が、この「油のようなやつ」から生まれるのだ。







無事駐車場まで戻ってきた。
湿原をあとにして山道を少し走ると、急に道が広くなった。
ここで京都を出て以来、本日初の道の駅遭遇。

昨年、「アマテラス石」という新種の鉱物が発見されたというニュースが話題になったが、ちょうどこの鯉が窪湿原から北に40キロほどくらいの場所にある大佐山という地域がその産出地だ。
そのため、この「道の駅・鯉が窪」では実物のアマテラス石が展示されている。らしい。
だが、今回はその写真はない。
ここに展示されていることを知ったのが、旅を終えた後だったからだ……。
アマテラス石は、「ヒスイが生成される時にヒスイの隙間に生成されたヒスイとは全く別の鉱物」であり、「通常はひとつの鉱物はひとつの構造だけで成り立っているにもかかわらず、なぜかふたつの構造を併せ持つという特異な性質を有している」という非常に不思議な鉱石。
この二面性が、ニギミタマ(優しく恵みをもたらす側面)・アラミタマ(荒々しく災害をもたらす側面)という二面性を持っている日本の神様を彷彿とさせるというので、その代表格である太陽神アマテラスの名前がつけられたのだそうな。
ナイスネーミング。
実物を見てみたかった……。
またあらためて訪れよう。
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このあと目の前で事故が発生。
道路が通行止めになって山を大きく迂回するトラブルがあった。
そうして通りがかった神社の祭神には、大和、出雲、吉備の神様が並んでいた。
実際この地域はそれぞれの真ん中に位置する土地なので、この並びは妙にしっくりくる。
看板にも、島根の地名が見え始めた。





また、こちらの神社では、実に珍しいものを見つけた。


床埋め込み式賽銭箱!
防犯対策なのだろうが、このスタイルは初めて見た。
人の歩く床より下に、神様へのお賽銭を収めると考えると罰当たりというかなんというかシュールな気もするけど、機能的といわれればそんな気もするかもしれない。
夜暗いときに参拝にくると、気づかずに踏み抜いてしまわないかちょっと心配だ。
古代山中交易都市
中国地方の山間部には、とても可愛い名前の川がある。
それが「可愛川」。
現在は「江の川」と呼ばれることが多い。
これで「ごうのかわ」と読む。
島根西部にある江津市も、「ごうのかわが流れ着いて海に注ぐところ」という意味で、「ごうつし」となっている。
島根初心者だった頃は「えつし」だと思っていた。
大昔、平安時代以前までの江の川は「可愛川」と呼ばれた。
可愛川と書いて、「えのかわ」。
「えのかわ」という名前に後から「江」の字があてられて、その字にひっぱられる形で「ごうのかわ」と呼ばれるようになっていったと推測できる。
この江の川、なかなか不思議な特徴を持つ一級河川だ。
日本列島は富士山のような独立峰をのぞけばどこもたいてい「真ん中」の標高が一番高い。
だから、真ん中より北側の水は日本海側に流れ込み、真ん中より南側の水は太平洋側に流れ込むのが普通だ。
だけど江ノ川の場合は一旦南側、瀬戸内海側に流れ出したにも関わらず、あと少しで瀬戸内海というところで急に北へ進路を変え、中国山地を越えて島根側に流れ込み、そこから大きく迂回して島根西部の江津へと注ぐという意味不明なルートを辿っている。
↑江ノ川の軌跡
そんな軌跡を描いでいるせいか、普通は下流にいくほど川幅が広くなるのに、この川の場合は中流域が一番広くなっている。
そしてその中流域に広がる三次盆地は、古代から非常に栄えてきた。
広島県は古墳が多いことで有名で、1万基以上発見されている。
そのうち三分の一以上の実に4千基が、この三次盆地付近に集中していると言えばこの土地の繁栄ぶりが容易に想像できるだろう。
それは現在も同様で、今回の旅では近畿中国地方の山間部をずっと走ってきて、いくつもの山間都市を経由してきた。
その中でも三次は群を抜いて「都会」感があって、驚いてしまった。
この発展を支えてきた土台こそが、江の川だ。
山のこちら側、陸路を使った瀬戸内海側の吉備、ひいては大和との交易と————
可愛川を利用した、山の向こう側の出雲や石見との交易が、この山奥にある盆地を大きく繁栄させた。
もしかすると、大和と出雲の調整役のような性格も持っていたのかもしれない。
この地域には、古墳時代以前からヤマタノオロチ退治の伝承も伝わっている。
ヤマタノオロチ退治というと出雲国の話というイメージが強いが、日本書紀の「第八段一書※(二)」に、安芸国の「可愛(えの)の川上」を舞台とするものがある。
※日本書紀には正伝とともに、当時各地域や書物に伝わっていた一書(異伝)が多数収録されている
大筋は一般的なそれに近いものの、この話ではまだイナダヒメは母親のお腹という違いがあり、ヤマタノオロチはヒメが産まれたと同時に襲ってきたところをスサノオに退治されている。
その後スサノオはイナダヒメとともに出雲へ移り、ヒメが年ごろになって結婚。二人の間に産まれた子の六世孫が、オオナムチの神である、という話になっている。
考古学的にも面白いところが多い。
たとえば、三次では弥生時代の墳丘墓から古代ローマ製のガラス玉が見つかっている。
もちろん古代ローマと直接取引があったわけではなく、シルクロード交易の果てにここへ辿り着いたものだろうが、古代のこの地域の独自性、交易網の広大さが想像できるだろう。
出雲勢力圏を代表する陵墓「四隅突出型墳丘墓」も、この三次盆地からスタートして出雲へと広がったと言われていた。(最近の研究では出雲でもほぼ同時に出現していたことが明らかになっている)
また、出雲のたたら製鉄は中世以降、つまり江戸時代以降に盛んになった一方古墳時代以前の痕跡は皆無と言っていいほど残っていない。
ところが、三次では古墳時代のたたら製鉄遺跡が発見されているのだ。
先ほどの、日本書紀一書によればスサノオはここから出雲へ移住したということだが、あの伝承はこうした経緯が形を変え言い伝えとして残ったものだったのかもしれない。
そんなふうに、出雲を考える上でちょくちょく関わってくるのがこの三次という土地なわけだ。
前々から一度訪れておきたいと思っていた。
残念ながら、見学したかった「みよし風土記の丘」の施設は到着時すでに閉館していた。






もうひとつの目当てだった、古墳時代のたたら製鉄炉跡だけでも見ていこう。
戸の丸山製鉄遺跡といって、市内の別の場所から、この丘に移築されたものだそうだ。



現在我々がイメージするような「たたら製鉄」は江戸時代以降にものすごく盛んになったもので、意外と近代的な存在だ。
一方で古代の製鉄に関しては、いまだに謎が多い。
先述のように、島根の出雲地方はたたら製鉄が有名だがこれらは99%以上が室町時代より後のもので、古代のたたら跡はほとんど見つかっていない。
一方、吉備地方には多く発見されていることから、中国地方の古代製鉄は吉備(瀬戸内海側)が中心だったことが分かる。
瀬戸内海に浮かぶ淡路島には、弥生時代の製鉄遺跡がある。
当時はまだ砂鉄や鉄鉱石など自然鉄から精錬製鉄する技術も知識もなく、海外から輸入した鉄(延べ棒だったり鉄器だったり)を溶かして再加工する工房だったことが判明している。
どのタイミングで本格的な国内製鉄がはじまったのかはよくわかっていないが、「戸の丸山製鉄遺跡」の推定年代は6世紀後半、貴重な古代のたたら製鉄跡だ。
不思議なことに、すでに国外の既存製鉄技術とは違う独自の工法が見えるそうだ。
ということはつまり、「この時期に海外から技術や技術者がやってきた」という単純な話ではない、ということになる。
伝来はさらに遡ると考えるのが自然だろう。
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ちなみに三次市を訪れたかった理由はもうひとつあった。

リリさんが以前、高校は「そこそこ都会」へ通っていたと言っていた。
これが実家から通っていたとすると、「島根の片田舎から通える都会」として三次市は候補のひとつと考えられた。
リリさんの実家をどこと仮定するか次第ではあるが、たとえば島根東部であれば当然松江市や出雲市の中心部が候補になる一方で、島根西部や中国山地寄りの山間部となると山陽側の都市が候補地になり得る。
通学先との距離や標高差、交通インフラの状況などによって交通手段も変わるだろう。
「自転車で一時間かけて通学するリリさん」「原付通学するリリさん」「バス通学するリリさん」「電車通学のリリさん」など脳内の想像は膨らむ。
江津市と三次市は、江の川沿いに敷かれた鉄道路線「三江線」で結ばれていたから、飯南や邑南、美郷町あたりからなら三次市の高校へは電車で一本の通学圏内だった。
……「結ばれていた」「だった」と過去形なのは、2018年3月に廃線となったため。
リリさんの高校卒業はおそらく2019年3月と考えられるので、その場合は最後の一年は車で送ってもらったか、バスか、あるいは寮や下宿生活だったのかもしれない。
そうして実際訪れてみた三次は予想以上に都会っぽいというか、洗練された雰囲気があった。
全体的に綺麗な街並みで、特に中心部は自分が住んでいる京都よりも都会的な感じだ。
山間部の街というよりも、「大都市圏の一角を構成する沿岸部のまち」、その一部分が突然山の中に現れたような雰囲気に近いかもしれない。
今回はほとんど通り過ぎただけになってしまった。
またあらためて訪れようと思っている。
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さらに走って、なんとか島根に到着。二日目へつづく。
2日目 出雲神&石見神連合 VS 八色の石蛇

気温の高い京都や滋賀の平地部ではお盆あたりから収穫が始まるけど、ここのりんごは9月以降が旬のようだ。
長野や青森などの産地とほぼ同じくらいの収穫タイミングだろう。
赤来高原は実際、島根の中でも標高が高く気温も低い。
今回の滞在中も8月と思えないくらい涼しく、夜や朝はバイクで走っていて寒いくらいで、服を数枚着込んでしまった。


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飯南から美郷町への山間部を走っていて迷い込んだ林道。
……林道?




道を天然のバリケードが封鎖していた。

引き返して再び西へ、走り出す。
このあたりでは、道路沿いに小さな水力発電施設をいくつか見かけた。


JAの管轄のようだ。
ネットで調べたところ、地域の再生可能エネルギー源として2010年から稼働、最大190kWを連続発電するという。
190kWがどれくらいか調べたら、1年間の家庭の冷蔵庫くらいらしいが、電気は貯めることができるので蓄積すれば実用的な量になるんだろう。
このあたりは奥深い山間部だから、豪雪や大雨による災害で陸の孤島となった際のライフラインという役割もあるのかもしれない。
もう少し走ると、三次市からしばらくお別れしていた江の川に再会した。

10年ほど前まではこの川と併走するように三江線が走っていたようだ。
沿岸にはところどころに鉄道の駅跡などの痕跡が残っているらしく、ほとんどは自然に還りつつあるものの、中には町おこしのための活用が企画されている場所もあるとか。
来年はこの江の川沿いを重点的に巡るのも面白いかもしれない。

美郷町は出雲と石見のちょうど境にある地域で、温泉が多い。
過去の旅の中でも何度も訪れているけれど、この道を走るのははじめてだった。
綺麗に整備されていて、江の川の景観もよく、走るのが気持ちいい。
お気に入りルートになりそうだ。
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出雲地方の山間部を走っていると、山をえぐりとったような形の、やたら巨大な棚田と出くわすことが頻繁にある。

普通の棚田との違いとして、山裾との距離が極端に近い(場合によっては山と田んぼが融合している)ことと、「棚田毎の横幅と段差がやけに大きいこと」が挙げられる。
ぱっと見普通の棚田の1.5倍大くらいのスケール感だろうか。
こうした棚田は、昔海外から来た地質学者が「こんな地形見たことがない!」と驚き喜んだという話もあるものの、実はたたら製鉄によって生まれた副産物だということをここ数年の島根旅の中で知った。
江戸時代のたたら事業は現在想像するよりはるかにスケールが大きく、中でも「鉄穴流し」は、砂鉄を含む山の斜面を大規模に削りこれを大量の水で押し流すことで、比重が大きいせいで残る砂鉄だけを集めるという「地形そのものを変える」工法だった。
これによって奥出雲中で山や丘が削られ、またその流路には特有の地形が形成されていった。
一度のたたら製鉄のために山一つ分の木材が必要だったため、鉄穴流し後の禿山には数十年後を見越して植林されたそうだが、それ以外にもなだらかな傾斜を持つ地形を活かして農地(段々畑)に転用することがあった。
奥出雲にやたら整然とした巨大な段々畑が点在しているのはこのためだ。


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県道55号線を美郷町から邑南町に入ったあたり。
秘滝や渓谷も多く山深いこのあたりには、そのものずばり「鉄穴原」という地名も残っているらしい。





地図を見るとこの近くに、「八色石龍岩(たついわ)神社」と呼ばれる社があるようだ。
本殿がなく、龍の岩そのものをご神体として祀っているらしい。

町はずれにぽつんとたたずむこのお社が、龍岩神社の遙拝所(行くのが大変な社や神域を遠くから拝む場所)のようだ。
つまりこのお社の背後の山中に、「龍岩」があるのだ。

この地域そのものの名前も「八色石」というそうで、はじめて聞く地名だ。
石や岩と縁深い土地なことは間違いない。
龍岩神社へ行けばどんな伝説があるか分かるだろうか。
遙拝所からバイクで一、二分も走るとすぐに標識と看板が見えてきた。


説明によるとここは、「ヤツカミズオミツヌノミコト」の神話が残る場所らしい。
オオナムチやスサノオではなく、ヤツカミズオミツヌが主役なのは珍しい。
山間部でこの神様の神話を見かけたのも、はじめてな気がした。
ヤツカミズオミツヌ(八束水臣津命)は、日本神話世界では知名度が低いけれど、出雲国風土記において「国引きの神=出雲の土地を作り上げた創世神」としていちばん冒頭で語られている超重要な神様だ。
その信仰は島根半島、つまり海に面した出雲北部に多い印象で、石見の山間部でこの名前を見るとは思わなかった。
この地域に伝わる伝承は以下のようなものだ。
ヤツカミズオミツヌノミコトが石見国を訪れた際、イワミノアメトヨタラシカラヒメノミコト(石見天豊足柄姫命)という姫神が現れて、
「この国には八色石(やいろいし)というものがあります。山や川を枯らし、蛇に化けて村を襲い民を悩ませているのです」
と語った。
そこでヤツカミズオミツヌノミコトはヒメとともに八色石のある場所へ訪れて、これをまっぷたつに斬り割ったところ、片方片が蛇の首となって邑智郡山間部へ飛んでいき、これが現在まで残る龍岩となった。もう片方は蛇の尾となって美濃郡に飛んで角石となった。
ヒメは大層喜んでヤツカミズオミツヌをもてなしたが、世が明けると、ヒメは石に変わっていたという。ヤツカミズオミツヌはこれは不思議な石を見たものだ、と言った。
天豊足柄姫命(アメトヨタラシカラヒメノミコト)は石見国を開拓して豊の道(衣服や食料の作り方)をもたらしたとされるいわば石見国の創世神。
つまり、この神話は「『出雲国の創世神』と『石見国の創世神』が同盟を組んで、共通の脅威を打ち破ったエピソード」と捉えることができるだろう。
このときの「不思議な石を見た」が「石見」の語源という説もあるそうだ。
石見国の代表神が女性神というのも興味深い。
島根には、古代に土地を開拓した首長を神格化した土着の神様を祀る神社が他の地域と比べて数多く残っている。
これは「出雲神話」の存在が大きいだろう。
記紀や延喜式(平安時代の有名神社名が記載された書物)だけではなく、出雲の場合は出雲国風土記にも「この土地は○○という神が拓いた」とか「○という神が降臨したのでこの地名と成った」と言った記載が多くある。
出雲神話に登場する開拓神や地域代表神には、女性名(○○ヒメ)も少なくない。
古代では、卑弥呼のような女性首長が珍しくなかったのかもしれない。
文字記録は重要だ。
本来祀られていた神様が時代の変化とともに、忘却や信仰心の定価、政治的事情などから「消失」や「変更」されたり、「他の神と統合」されるケースは実に多い。
この代表例が出雲大社(当時の名前は杵築大社)だ。
現在この大社の主祭神は「オオクニヌシ」となっているが、実は鎌倉時代から江戸時代途中まで500年ほどの間は「スサノオノミコト」が主祭神とされていた。
この頃は神仏習合が盛んで、大社と同じ島根半島にある「鰐淵寺」という寺が京都の比叡山延暦寺と結びついて力を持ち、杵築大社にも影響を与えるようになった。
鰐淵寺は594年創建という歴史の古いお寺なのだが、こちらの伝承する出雲神話では「出雲を国引き・国造りしたのはスサノオノミコトである」としたことから、鰐淵寺が力を増すと共に杵築大社の主祭神もスサノオノミコトに変更されてしまったそうだ。
全国には「杵築神社」という神社が点在しているが、その多くがこの時期に全国へ分霊された社のため、今もスサノオを主祭神としている場合が多い。(あるいはかつてスサノオと同一視されていた牛頭天王が主祭神のケースもある)
総本山である杵築大社の方は江戸時代以降に「オオクニヌシ」へと主祭神に戻されたが、この際には「古事記・日本書紀」をはじめとする文字記録が「本来のかたち」を示す根拠とされたことは言うまでもない。
その後明治になって「出雲大社」へと名前を改めて現在に至っている。
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石見の開拓神であるアメトヨタラシカラヒメがなぜ最後に石になってしまったのかは謎だ。
ヤツカミズオミツヌ自身も「おかしなことがあるものだ」と呟いている。
蛇との戦いで力尽きて神様としての姿を保てなくなったとか、ヒメ自身が元々石をルーツに持つ神様で、それが石見国の地名にも繋がるのかもしれないとか色々想像はできるけれど……
八色石 → 大蛇に変化 → 退治されて、石に戻る
石? → 女神 → 八色石の退治後、石に戻る
この対比だけ見ると、アメトヨタラシカラヒメと八色石は元々同族、あるいはそれに近い存在だったように感じてしまう。
つまりヒメ自身もまた八色石の化身で、本体である八色石が斬られたことでヒメも石に戻った……とか。
さらに、「八色石」と「蛇の頭」というキーワードや「山や川を枯らす」という設定は、ヤマタノオロチとの関連も連想してしまう。
すでに書いた通り、江の川もまた日本書紀版ヤマタノオロチ伝説の舞台であり、この龍岩神社は江の川流域にあたる。
神社の説明板によれば八色石伝承が記載されているのは『石見海底廼伊久里』という江戸時代の書物だといい、大正時代刊行の『那賀郡誌』ではすでに筋書きが変わっていて、ヤツカミズオミツヌの救援を借りつつヒメ自身が最前線でオロチをなぎ払って討伐している。
それ以前いつから、どういう形で伝わってきたのかをうかがい知ることはできないが、八色石という地名となっているくらいなので、古くからこの場所で「岩」が祀られ信仰されてきたことは確かだろう。
補足だが、アメトヨタラシカラヒメ=天豊足柄姫命の名前は「延喜式(平安時代の有名神社をまとめた書物)」に見られる歴史の古い神様だが、これが八色石の伝承が当時からあったものかどうかの根拠にはならない。アメトヨタラシカラヒメを主祭神として祀る浜田市の石神社(天豊足柄姫命神社)では、境内の碑文にて「姫神が石と化す伝承は根拠が無くて信じることができない」という見解を示している。
とまあ予習はここまでにして。
伝説の「龍岩」。是非、参拝してみよう。
そのためには、まず乗り越えるべき試練がある……

眼前にそびえるこの階段を登り切らなくては。
443段あるそうだ。
朝一番なので元気は十分。
どんどん登っていこう。
……と最初の数歩を踏み出したところで足下に、草木よりも鮮やかな緑色が目に入った。

今朝羽化したばかりのミンミンゼミだ。
そういえばリリさんが岐阜でそんな話をしてくれたことがあった。

幼いリリさんがセミの羽化に夢中になっている様子がありありと想像できる。
羽化したてのセミは妖精のように真っ白で繊細でみずみずしく、それが時間が経つと段々乾き色づいて、よく知るセミの姿に変わっていく。
それはどこか生命の誕生とか生まれ変わりの一端に触れたような、不思議な気持ちになるものだ。
朝から良いものが見られた。
驚かせないように気をつけて先に進もう。


石段を登り切ると、木造の小さな拝殿の後ろに大きな岩が存在感を放っていた。



なるほど、これは確かに龍岩……巨大な蛇の頭に見える!
高さは2.5メートル以上あって、横幅はその倍以上。想像以上に大きく、角度にも寄るが想像以上に「蛇の頭」。
それが地面の中から生えているようでこれは圧巻だ。
ナナメ前からのアングルがもっとも勇壮だが、後ろから見る感じもつるりとした曲線がヘビの頭っぽくみえて面白い。


近くで見ると、この龍岩の正体は岐阜の金華山や飛水峡でお馴染みだった「チャート岩石」のようだ。
チャートは古代の、貝のように堅い殻を持った微生物が圧縮された化石で、その性質上硬質で風化しづらく形が残りやすい。
岐阜の金華山も、平地からプリンのようにそびえているので火山(=そこだけ盛り上がった)と勘違いしがちだが実態は逆で、堅いチャート岩石でできているために浸食を免れた山だった。
この龍岩も同様だろう。
チャートは古代には武器や道具の材料としてたいへん重宝されたので、これが産出する場所には縄文や弥生時代の住居遺跡が見つかることも多い。
このあたりにも大昔から人が住んでいたのかもしれない。
八石岩の神話は、その名残なんじゃないだろうか。

この龍岩神社の現在の祭神はスサノオとヤツカミズオミツヌだという。
しかしこうやって見ると、ご神体として丁重に祀られているのはむしろ、悪とされ、切り倒された「八色石」の頭部。
なんとなく、神話と実態のズレを感じる。
こういうズレ……主流の説話では「悪」とされる存在が、地元では信仰されているという齟齬は過去の旅でも何度か感じたことがある。
岐阜と滋賀の県境でヤマタノオロチが氏神として祀られていたり。
飛騨の奥地ではリョウメンスクナが英雄と親しまれていたり。
京都丹波の一部でシュテンドウジが信仰されていたり。
もしかしたら…………例の神話の最後、元々は女神が変化した石こそがこの岩だったんじゃないか。
地域を開拓した女神が化身した岩なら、こうやって丁重に祀られているのも合点が行く……なんて、思いつきの想像にしか過ぎないけれど。


そういえば、八色石の片方はこの龍岩として、もう片方は美濃郡に飛んで角石となったと書いてあった。
美濃郡というのは島根西部、現在の益田市あたりのことだ。
「三本の川によって形成された平野」という意味の「三野」が変化して「美濃」になったと伝承されている。
「美濃」の漢字をあてたのは、岐阜の美濃の影響によるものだろう。
「美濃の角石」でネット検索してもほぼヒットしない。
龍岩とは違ってすでにどこにあったものか忘れ去られてしまったのだろうか。
旧美濃郡のどこかにあるとしても、範囲が広すぎて特定は困難だろう。
海辺から山間部、島根の秘境と呼ばれる匹見までを含むのだ。
今後の旅の中で偶然巡り合えることを願うとしよう。
朱い屋根の国
さらに西へ進む。
できれば今日中に西の端、角島まで走りたい。
その道中、以前から気になっていたスポットに立ち寄った。
広島との県境にほど近い、中国山地のど真ん中。
道路の脇に立つ、朽ちかけた看板が目印だった。



順庵原一号墳。
古墳時代よりも前の弥生時代に築かれた「弥生墳丘墓」だ。
三次市の項でも書いたように、江の川による水運や物理的な距離の近さ、中国山地標高の低さなどから、このあたりの地域は山間部でありながら日本海側と瀬戸内海側を結ぶ中継地点として非常に便利で、古代から栄えていた。
この場所に特異な古墳が築かれたのはそういった事情によるものだろう。

弥生時代の出雲地方を中心として北陸にまで広がる出雲式の埋葬文化「四隅突出型墳丘墓」。
後の「古墳」の前身のひとつとも言われるこの墳墓形式は、文字どおり四隅がベロ状に飛び出た造りになっていることが特徴で、この順庵原遺跡こそがその「いちばん最初の発見例」だった。
つまりこの遺跡が発掘されるまでは、四隅突出側墳丘墓という名称はもちろん、こうした形態の遺跡自体を誰も見たことがなかったわけだ。
そういう意味で、この遺跡は「出雲」を巡り考える上で、とても重要なスポットなのだ。

とはいえ、遺跡そのものは土で埋め戻されている。
四隅の突出した部分に多少、敷石が見られるくらいだった。
かつてここにいくつも並んでいたというストーンサークルも、土で覆われて想像することしかできない。


ほとんど訪れる人がいないようで、真夏ということもあって草木も元気いっぱい生い茂っていた。
とはいえ、個人的にはこうやって現地に立って、その下にあるものを想像するのもけっこう好きだ。
今後四隅突出型墳丘墓を訪れるたびにここのこともまた思い出すだろう。
そのときに、今この瞬間には気づかなかった新たな発見もできるかもしれない。
そういうチャンスにつながるのも、こんな風に実際に現地を訪れたからこそだと思う。
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ずっと山の中を走ってきたが、ここから先は一旦海沿いに出て、山陰道(無料高速道路)を利用した方が大幅に時間が短縮できそうなのでルートを変更。
途中、とても展望の良さそうな休憩所があったので思わずバイクを停めた。




案内板には「石州瓦の赤い屋根が並ぶ家々が風景と調和し『日本のスイス』とも呼ばれます」というようなことが書かれている。
スイスかどうかはともかく、絶景なことは間違いない。

ここではじめて「石州瓦」という存在を意識した。
「石州瓦」という言葉自体は知っていたけれど、それは確か、山陰のどこか(後で調べたら下関だった)で瓦を鉄板がわりにした名物そば「瓦そば」があって、そこで石州瓦を使っているという話だった。
もちろん屋根瓦としても非常に優秀で、水を吸わないため雪に強く、塩害や猛暑にも耐性が高い、この土地に適した瓦だそうで別名「100年瓦」とも言われるらしい。
よく見たらここから見える風景の中で、八割以上の民家が石州瓦を使ってないか?
こんなにポピュラーというか、圧倒的シェアだったのか。
なんで今まで気づかなかったんだろう。
そんな石州瓦が、このとき見ている風景とともに頭の中で過去の記憶と結びついた。
確かに……よくよく思い返せば……これまで旅してきた中で、島根は赤い瓦の家がやたら多かった気がしてきた。
これまではっきりと意識もしていなかったけど。
そうか。そうなんだ。
自分がこれまで見ていた島根の風景。
ひいては「リリさんの故郷の風景」。
それを視覚的にも文化・歴史的にも形作る重要な要素としてこの「石州瓦」があったんだ。
意識していなかっただけで「ああ、島根らしい景色だなぁ」と感じるとき、その理由の中にこの赤い瓦屋根があったのかもしれない。


自分の想像の中で特にこだわりもなかった「リリさんの実家の屋根の色」や、「家の縁側から見える民家の屋根の色」が石州瓦の赤一択になった瞬間だった。
一度気づいてしまえば本当に今まで何で気づかなかったんだと思うくらい、島根の町並みは石州瓦の赤が印象的だ。
何度も何度も繰り返し訪れてようやく、またひとつ、島根の風景の根っこにある色彩に触れられた。
こんな風に今後も少しずつ、解像度を深めていけたら幸せだ。

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SL(蒸気機関車)を追いかけて
高速道路を走るとやはりスムーズで、予定より少し早く津和野へ到着した。
今回が三回目の探訪になる。
2024年は一度の旅の中で二回も訪れたこともあって、今も思い出深いまちだ。


この日は山口から津和野までを「SLやまぐち号」が往復する日で、今回も走る姿を見たいと思っていた。
駅の方を確認すると赤い列車が停まっているだけ。
まだ汽車の姿はない。
時刻表を確認すると、到着予定時間はまだ20分以上先だった。
ここからなら、津和野の町をSLが走るのを俯瞰できる。
待つのもありだけど…………
ふと、「前回津和野に来た際も津和野の市街地でSLを見たから、今回は別のところで見てみようかな」と考えた。
地図と時刻を確認して少し考え、津和野より手前、山口県側まで足を延ばしてみることに。
地図を見たところふたつほど手前の駅、徳佐駅のあたりまで行くと田園風景が多く、SLが農村風景の中を走る様子がよく見えるようだ。
ナビによれば、バイクならここから約10分くらい。
最悪、すれ違ってしまう可能性もあるけれど…………そのときはその時か。
早速移動することにした。
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津和野から峠を一つ越えただけで、風景は一変。
見渡す限りの広大な農村が広がっていた。

大昔は巨大な湖だったそうで、そのときに堆積した土砂によって水平の広い広い盆地になったらしい。
ひたすら田畑が広がっているが、広すぎてどこに鉄道線路があるかさえわからないくらいだ。
ここからだと汽車が走っていても遠すぎてわからないかもしれない。
とりあえず近くにあるらしい徳佐駅を探してバイクを走らせるも、幹線道路からひとたび離れると道が入り組んでいて、何度か行き止まりに出くわす。
そうしているうちに、農道に迷い込んでしまった。
ちょうど線路沿いに伸びる農道だったが、ここで見学しててもいいんだろうか。
農業車両が通るのに邪魔になるんじゃないか。
もうちょっと広い道を探そうかな…………
そんな風に考えていると向こうから何かがトコトコとのんびり歩いてくるのが見える。

呑気というかマイペースなアナグマに思わず和んでしまう。
微笑ましく見送っていると、不意に汽笛が聞こえた。
やばい。もうまもなくSLがやってくる!
あわててしまって優柔不断が発動する。
やっぱりもうちょっと広い道路まで戻ろう!思わずバイクを進ませたところで、すぐ横をSLが加速して追い抜いていく。
はからずも一時並走するかたちになって興奮した。

延々繋がる黒い車両が壁のようで心地よい圧迫感がある。
もうもうと立ち上がる黒煙は、濃厚な火薬の匂いだった。
↓音量注意
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そのまま一旦大きな道路に戻ってあらためて徳佐駅を探してみると、運良くすぐに道が見つかった。
駅に着くとちょうどSLがもうもうと煙を上げながら出発していくところ。
間近で聞くと汽笛の音が凄まじい。
耳の中で鼓膜がビリビリと震える。
爆音に驚いた赤ちゃんがうわんうわん泣いているのを、お母さんがちょっと笑いながらあやしていた。
↓音量注意!!!

なるほど。
加速時には石炭を沢山燃やすから、こうやって大量の蒸気と煙が出るわけか。
この煙あってこそ、「汽車」って感じがする。
そういえば以前訪れた時撮影した場所には大勢のカメラマンたちが集まっていたっけ。
あそこは長いストレートかつちょっと登り坂になっているところで、めちゃめちゃ煙をだしていた。
「良い感じのSL写真を撮りたいなら、加速するポイントをおさえると良い」というような話を聞いたけれど、これが理由なんだろうな。

このまますぐに山口方面に進むことも考えたけど、もう少し汽車を見たいし、食べたいものもある。
いったん津和野へ戻ることにした。
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15分後、再び津和野に到着。
法定速度内で普通に走ってきたのだが、山間部でSLやまぐち号を追い越したようで(後で地図を確認すると鉄道路線は車道に比べてかなり大回りしている)、展望台にバイクを停めて街並みを見下ろすと、ちょうど汽笛とともにSLが街を駆け抜けていき、やがて駅へと入っていくのが見えた。

津和野に着いたSLは、いったん客車と切り離されて、専用の施設……「転写台」と言う巨大なターンテーブルによって方向転換を行う。
SLは、電車や自動車のようにバックできない。
バイクと同じでただただ前にしか進めないので、こうした設備が必要となるのだ。
以前も見たが、今回も是非見て行きたい。
転車台そばには観覧用のスペースがあって、駐車スペースも併設されていることを以前訪れた経験から知っている。
今いる展望台からは道を下ってすぐの場所。
早速移動しよう。
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転車台付近にはすでに大勢の人が集まっていた。
時折SLの汽笛が響く中、ちょっとしたお祭り感というか、みんなが楽しそうにワクワクしている雰囲気に満ちていて自然とこちらまでワクワクしてくる。




↓SL動画まとめ 音量注意
間近でSLの威容を堪能したあとは、市街地へ移動する。
以前津和野を訪れて以来大ファンになった「あの名物」がお目当てだ。


津和野名物・源氏巻。
甘いカステラ生地でこしあんを包んだこのお菓子が、はじめて津和野を訪れて以来大のお気に入り。
去年も松江の物産店で他のお土産に目もくれずこれを購入して食べたくらい大好きだ。
源氏巻は津和野のいくつかのお店で作られていて、こしあん以外でも、お店によってはつぶあんや抹茶などを巻いていたり「源氏巻アイス」とか「源氏巻揚げ」なんていう変わり種もあったりするけど、自分は熱烈なこしあん派。
特に、市街地の中心近く、津和野川のほとりに焼きたての源氏巻を販売している「元祖源氏巻総本舗 宗家」というお店があって、ここの源氏巻が絶品だ。
二年前は一度の旅の間に二回も訪れ、片手で数えられないほどたくさん買って行った記憶がある。
値段も一本250円と破格だった。
ここ数年色々高騰したからか今回は以前より20円だけ値上がっていたけれど、それでも安すぎるくらいだ。
その場で食べるための一本と、道中のおやつ用に三本を購入。
常温でも一週間程度は保存可能なのがありがたい。
さて次は、町はずれにある道の駅へと向かう。
ここに併設された温泉施設に前回はお世話になったけど、今日の目的は別にある。


それがこの「まめ茶」。
カワラケツメイというマメ科の野草があって、これを焙じ茶にしたものだ。
昔はチャノキのお茶が高級品だったため、津和野では庶民のお茶としてこのカワラケツメイを原料にしたものが親しまれていたそうだ。
今も町の周囲には、普通のお茶畑とカワラケツメイの茶畑が並んでいるのだとか。
これも二年前に津和野を訪れた時になんとなく買って以来、気に入っているお茶だ。
ほんのり甘く、香ばしく、さきほど買った源氏巻との相性も良い。
値段も普通のお茶よりずっと安いので、旅の間用と帰宅後用に、数袋を購入していく。
ついでに、ほとんど売り切れていた野菜コーナーの隅っこにブルーベリーを見つけて、これも買っていくことにした。

パックにびっしり入ったブルーベリーが250円。びっくりな安さ。
甘味と酸味のバランスがよい上に皮が薄くて実はたっぷり、味がとてもよかった上に鮮度抜群で、この後4日くらい常温で持ち歩いても問題なかった(むしろ甘味が増した)くらい長持ちした。
朝食時や散策後の疲労時など、数粒食べれば元気が湧いてきて、その度に「これはすごく良い買い物だったなぁ」と強く印象に残ったものだった。
この道の駅にも源氏巻が売られている。
いろいろな銘柄の源氏巻を買って行こうか迷ったけれど、買ったら買った分だけすぐに食べてしまうのは目に見えているので、ここはひとまず控えておいた。


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道の駅のすぐ横から急勾配の登り坂が伸びていて、ここから標高370mの野坂峠をひとつ超えると先ほども一瞬だけ訪れた山口県山口市阿東徳佐に至る。
先述のように、山と山に抱かれた狭い谷間に町が密集する津和野とはうって変わって、峠一つを隔てた山口側は驚く程平べったく広大な「徳佐盆地」が広がっていた。

この「徳佐(とくさ)」という地名の由来は、「十種ヶ峰(とくさがみね)」から来ているという。
十種ヶ峰は島根県と山口県の境にある山で、2024年に訪れた際に登頂し今も心に残る絶景スポットだった。


山名の由来は、「十種神宝(とくさのかんだから)」が埋葬されているという伝承から来ているそうだ。
十種神宝というのは、天孫ニギハヤヒが天から授かったとされる「十種の神器」で、先代旧事本紀という平安時代の書物に記載されている。
この「十種(とくさ)」が転じて「徳佐(とくさ)」になったのだとか。

徳佐盆地からは、この十種ヶ峰がよく見えた。
同時に、以前あの山頂から見えていただだっ広い平野はここ(徳佐盆地)だったのかと合点する。
2年越しの答え合わせだな。

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ここで今後の行程について少し迷った。
本来の予定だと、今日中に本州の西端まで走るつもりだったけど、あと一時間もこの徳佐盆地で待てば、この田園風景を山口行きのSLが走るのを見物できる。
どうしようかな。

先に進むか、とどまるか。
うむむむむむ。
数分間考え込んで、決めた。
この広い田園風景の中を走るSLをあらためて見物して行こう。
そのあとはどこまで走れるかわからないけど、行けるところまで行って、疲れたら寝る。
「明日は明日の風が吹く」ならぬ、半日後には半日後の風が吹いていることだろう。
そうと決まったら、SL通過時刻まではこの周辺で気になっていたスポットを巡ってみよう!
静御前の墓と船平山
まずはこのすぐそばにあるという、「静御前の墓」から訪れてみよう。
先ほどSLを探して国道9号線を走行中、道路脇に「静御前の墓」という看板が見えて気になっていた。
なんでこんなところに静御前のお墓が?
静御前は平安時代の女性で、源義経の側妻であり、最も有名な白拍子(男装で舞う教養豊かな芸能者)としても知られる実在した人物だ。
鎌倉幕府の正史「吾妻鏡」にその名前が確認できる。
それによれば、源頼朝と関係決裂した義経に付き従って逃亡していたものの身重だったために京へ帰され、その途中で鎌倉方に身柄を拘束。
連行されて、源頼朝の前に引き立てられたことが記録されている。
その後生まれた義経の子は男子だったために命を奪われ(平清盛が幼少だった頼朝・義経を見逃したために後々滅亡に追い込まれたことからの教訓と考えられる)、静御前とその母は北条政子のはからいもあって生きて京へ帰されたと記されているが、吾妻鏡にはそれ以上の言及はなく、他の同時代の文書にも記載はないため、史実での以降の消息は不明だ。
判官贔屓(判官=義経の職名)という言葉があるくらい古くから源義経は大衆に親しまれていて、そこには静御前との悲恋という要素も影響していただろう。
そのためか全国各地、それこそ東北、北陸、関東から東海、近畿、四国、九州に至るまで、さまざまな場所に「静御前終焉の地」が存在するようだ。
内容も、実はみごもったまま落ち延びて無事出産したとか、母子共に亡くなったとか、あるいは子を失ったあと失意のまま流れ着いて出家したとか、はたまた義経を追いかけて北海道を目指したとか、義経の訃報を聞いて身を投げたとか、様々な人々によって願いや憶測を込めて伝えられたようで多岐にわたっている。
そうした終焉伝承地のひとつが、この徳佐にあるようだ。

ちゃんと駐車場が用意されている。
ありがたい。
バイクを停めて、振り返ると。

どう見ても普通の家なんだけど。
この家の中に静御前のお墓があるんだろうか?
……………………
入り口って書いてあるし、入っていいん…………ですよね?
ちゃんとお墓の説明が書かれた看板もある。
入っていいはず……

おそるおそる家の方へ近づいていくと、手前に左に曲がる道があって、そこに「静御前墓所 この先50m」という立て札を見つけた。
よかった、こっちで合っているようだ。
未舗装だけど、しっかり草刈りがされていて、ゴミ一つ落ちていない。
日頃から大切に手入れがされているようだ。


獣よけの柵が見えてくる。
あの中のようだ。
薄暗いのでちょっとドキドキしてきた。

参道はやはりていねいに掃除されている印象だ。
竹や木々に包まれて薄暗いけれど、怖い雰囲気はなかった。
すぐに、古い墓石が立ち並んでいるのが目に入る。


しばらく手を合わせて黙祷する。
地元の方が、毎日お花を供えているようだ。
苔むした古いお墓の前を、白とピンクが可愛らしく彩っている。


非常に古い形のお墓だ。
この型の塔は、遺体を埋葬した場所に建てる墓石ではなく、供養塔としての性格を持つものらしい。
様式的には鎌倉時代から室町時代のものということで、静御前が生きた時代よりも数十年ほど後のもの。
この地に眠るのが本当に静御前とその縁のひとたちだったのか、その真相は知る術もないけれど、地域で遠い昔から大切に守り、語り継がれてきたことは間違いのない確かな歴史だ。
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まだSL通過までには時間があった。
そこで、静御前の墓のすぐ近くに、徳佐盆地を見渡せる展望台があるようなので次はそちらをたずねてみることにした。
船平山という山……というより丘の上にあるらしい。
ふもとには同名の駅があるけれど、ここにはSLは停車しないそうだ。
この駅のそばにある踏切を越え、細い生活道路を抜けると、うっそうとした木々に囲まれたかなりの急勾配の道との丁字路に差し掛かる。
ここを登れば「船平山展望台」だと、看板が教えてくれていた。
急勾配をバイクの一速でゆるゆると登っていくと、すぐに駐車場へ辿り着いた。


ここから展望台まではもう少し歩くらしい。
夏の昼下がり、暑さのせいか自分以外には誰もいない。

坂道を登り切ると、綺麗に整備された芝生の斜面が広がっていた。

そして、後ろを振り返ると――――

面白いくらいに平坦な盆地が一望できた。
ここから見るとまるで巨大な畳敷きのようにも見える。


しばらく見入ってしまう。
ほんの少し丘を登っただけでここまでの展望が広がるとはびっくりだ。

ここまで特徴的な地形になったのは、ちょうどこのあたりで火山がいくつも噴火したのが原因だという。
この火山活動によって、それまでは徳佐側(南)から津和野(北)へ川が流れていたのが分断。
本来日本海へ流れるはずだった水がこの山間に貯まって湖となった。
まるで天然のダムと言える状態だ。
しかしこの土地が特殊なのはここからだ。
水とともに土砂が流れ込み、少しずつ湖底を埋め立てていく。
そして気の遠くなるほど長い年月がたって湖底の標高が周辺の土地よりも高くなったタイミングで、今度は水が逆流。
流れ出した水は180度方向を変え、南(太平洋側)へ向かう新たな川が生まれた。
これによって湖の水はすべて抜け出てしまい、あとにはこの独特な景観の盆地が残った……という流れだそうだ。
参考:地質情報ポータルサイト
元々、このあたりは分水嶺に近かったのだろう。
だから、流れ込む土砂堆積によるわずかな盛土で日本海へ流れ込む川から太平洋に流れ込む川へと変わってしまった。
今田んぼがある地面よりも数メートルか数十メートルか、そう深くない位置に本来の地面があったはずだ。

展望台の周囲はピクニックコースになっている。
小さな子供連れの家族でも安心して遊べそうな場所。
この日は猛暑だったため人の姿がなかったけれど、時期によってはこのあたりはユウスゲやレンゲツツジの花が咲き誇るようだ。その頃にはきっと多くの人が訪れるんだろう。

芝生広場周辺にはアスレチック的な施設や、まきなんかも置かれている。
バーベキューとかもできるようだ。



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SLがやってくるまでまだあと20分ほど時間があるので、今度は湧水を汲みにいくことにする。
船平山の麓に「大坪の清水」という古くから地域や旅人に親しまれてきた名水があるのだそうだ。
早速山を降りて、移動する。
5分とかからず到着。



このあたりの岩の下から広く湧いているようだ。
湧水量はかなり多く、冷たい水が流れ続けているおかげで水底までとても綺麗だ。
ただ、湧水を湧水口から直で汲むことができず、湧出した水を溜めている池から汲むスタイルなので、生で飲むには適していないだろう。
水面にアメンボがスイスイ泳いでいるし。
なるだけ水が湧出しているあたりから汲んで自己責任飲みすることも考えたけど、今はそれほど喉も乾いていないから、ここではペットボトルに汲んで、後で煮沸していただくことにした。


この排水路、排水は排水でも、生活排水ではなく名水排水。
「大坪の清水」からの湧出量が多いため、それが溢れないように作られた水路のようだ。
昔はこの水を田畑にも引いていたのだろうか。
今は完全に隔てられていた。
夏の暑さとは無縁の冷涼で透明な水が、すごい勢いで流れている。きゅうりかトマトでも持っていたら、この水路で冷やしたいくらいだ。
しばらく涼をとっているとSLの通過時刻が近づいてきたので、線路の方へ戻る。
先ほど登った船平山は、ここからでもひとめで分かるほど特徴的な形だ。



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やがてカンカンと音を立てながら遮断機が下り、船平山の後ろあたりからSLが姿をあらわして、時速30キロくらいでゆっくりと徳佐盆地を駆け抜けていく。
次の徳佐駅まで平坦な上距離も近いので石炭を炊いて加速する必要がないのだろう、ほとんど煙は上がっておらず、汽笛よりもガシャゴトガシャゴトという車輪が周る規則的な音が大きく耳についた。



SLはあっという間に遠ざかっていった。
自分も、先へ進むとしよう。



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海底鉱山のまち



阿東を出たあとはほぼほぼノンストップで山口市中心部を抜けて、さらに南下。
瀬戸内海へ行き当たる。
ここで、日本海側を通る山陰道=国道9号線と、瀬戸内海側を通る山陽道=国道2号線がついに合流。
あと少しで本州の西の果てだ。
遠くまで走ってきた!という実感が湧き上がってきた。


今回の目的地のひとつに、山口市の隣町「宇部市」がある。
ここを訪れようと考えたきっかけは、「ユニクロ」だった。
2年以上前、リリさんと休日に買い物に出かけるという二次創作小説を書いていた。(未発表)
大型ショッピングモールで買い物中にユニクロを見かけた主人公がふと「島根にもユニクロはあるんだなぁ」と不用意に呟いてしまったことから話が展開し、島根ではユニクロが全国チェーン展開する前(90年代前半)にすでに存在していたこと、そもそもユニクロというブランドそのものが中国地方発祥だということを知る。
その発祥地として調べて出てきた地名こそが「山口県宇部市」だった。
それ以来、取材も兼ねて宇部を訪ねてみたいとかねがね思っていた。
宇部は江戸時代から昭和にかけて、石炭鉱山で栄えた土地だそうだ。
そのため、市内のあちこちに炭鉱跡や関連史跡が今も残っている……らしい。
炭鉱というとなんとなく山の中にあるものだとばかり思っていたが、宇部周辺は海底の炭鉱で有名だという。
元々は、江戸時代に海岸近くの岩礁などに露頭した石炭を採取していたことに始まって、やがて陸地から長い地下トンネルを掘って、海底を採掘するようになったそうだ。
沖合にある海底炭鉱と言えば、長崎県の端島、いわゆる「軍艦島」が有名だが、あちらは小さな瀬を埋め立てに次ぐ埋め立てで島にした上で竪穴(真下への穴)を掘っている。
一方ここでは陸からの長い海底トンネルで、沖にある鉱脈にアクセスしている違いがある。

鉱山といえば崩落や浸水、それに有毒ガスなど、事故の危険と常に隣り合わせだったという話をよく聞く。有名な石見銀山では、有毒物質であるヒ素を含まなかっためというのが隆盛の理由のひとつとして挙げられるほどで、鉱物資源というのはそもそもからして危険と隣り合わせの存在なのだ。
陸上の鉱山でもそうなのだから、絶えず海水圧のかかる海底炭鉱ともなればその過酷さは想像に難くない。
宇部炭鉱でも、炭鉱の規模に比例して事故が付き物だったようだ。



山口市内から宇部市内へ向かう途中に立ち寄ったのが、山口宇部空港の近くにある海底炭鉱のひとつ、長生炭鉱跡。
この炭鉱では千人単位の人々が作業していたが、1942年に崩落・水没によって183人が坑内に閉じ込められたまま閉鎖されてしまった。
周辺の説明板や案内板には韓国語が併記されている。
これは、183人の犠牲者中136人が朝鮮半島出身の労働者だったことが理由らしい。
長生炭鉱は崩落の以前から水漏れが常態化しており、日本人労働者からは危険炭鉱として避けられて人が集まらなかったのだそうだ。
事故発生から80年以上も海中に眠ったままだった遺骨の引き揚げは、坑道そのものが海中に埋没していたため長年実現しなかったものの、技術の進歩もあって最近になって大きな動きを見せている。
2021年、クラウドファンディングなどで集めた資金により海中に埋まっていた坑道を掘削、再発見することに成功。
その後ダイビングによってピーヤ(海底から海上に伸びたエントツ状の排気孔)や坑道の調査が繰り返し行われ、引き上げられた遺骨を遺族の元へ戻すための活動が続けられている。
2026年1月には日韓首脳会談においてもこの活動における協力体制について話し合われており、現在進行形で進んでいる問題だ。

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この翌日に宇部になる「石炭博物館」というところに訪れたのだが、そこに掲げられていた宇部市の炭鉱の年表によればこの長生炭鉱以外でも、「大正4年に海水が流入して234人が亡くなった東見初炭鉱」や「大正9年に海水が流入して34人が亡くなった新浦炭鉱」「昭和25年に海水流入事故が起きて35人が亡くなった若沖炭鉱」などの事例が並んでいた。
さらに調べてみると、決して宇部の炭鉱が特別事故が多かったというわけではなかった。
先述した軍艦島や北海道の夕張炭鉱など有名な炭鉱を含めて、毎年のように全国どこかの炭鉱で事故が起きていた。
明治から昭和までの百年余の期間で、数十人から数百人が無くなった大事故の記録だけでも五十件近くに昇り、小規模な事故は記録にさえ残っておらず実際には膨大な数にのぼると考えられている。
石炭採掘にはそうした事故の危険性があるにも関わらず、誰かが止めるわけでもなく、安全対策も徹底されないままに、次から次へと日本各地で新しい炭鉱が発見されては開発されて、フル稼働し続けた————当時は人の命以上に、エネルギー資源としての「石炭」が社会にとって重要だったということなんだろう。
大昔のことだと思いきや、昭和40年代とか50年代になってもなお二、三年に一度の頻度で二桁以上の死者を出す事故が記録され続けていて、調べていて驚いた。
特に50年代以降、最新鋭の技術を採用して安全面にも配慮した新炭鉱において、数十名が無くなる大事故がたてつづけに発生している。
昭和60年(1985年)には、三菱南大夕張炭鉱(今のシューパロ湖の三弦橋のある付近に存在した)で起こったガス爆発事故事故で、62人が犠牲になったそうだ。
日本の石炭事業がある時を境にパタッと消滅して、今や黒歴史のように社会から忘れられている(自分も含めて、石炭が日本で採れたことを知らずに育った人は多いだろう)ことにも、こうした経緯を知ると合点がいく。
「最新技術を投入しても防げなかった」石炭採掘は、人命より(会社の、あるいは社会の)利益優先の方針が許されない社会となった日本では、消滅するべくして消滅したわけだ。
石油に取って代わられて普段の生活ではほとんど目にすることのなくなった石炭(そのおかげで「SLやまぐち号」のように石炭で動く蒸気機関車が珍しくて観光として成り立つ)だけど、2026年現在の日本でも多量の石炭を輸入して、火力発電所や製鉄所、セメント生産、化学工場などに広く使われ続けているのだそうだ。
2026年現在、国内で稼働している炭鉱は北海道の「釧路コールマイン」一ヶ所だけとなっている。
2002年の開業以来一度も大事故に直面していないのは、昭和の頃とは比較にならない高い保安意識と機械技術の賜物だろう。
それでも事故のリスクは決してゼロにできないため、坑内のデータ管理を徹底しつつ、日々の避難訓練は欠かさないという。
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かつて石炭で栄えた都市・宇部は、全炭鉱閉山の後どんな街になっているんだろう。
なんとなく、同じく炭鉱都市だった夕張を連想していた。
夕張は最盛期にはかつて人口12万人を超える都市だったそうだが現在は6000人余まで減少してしまっている……
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暮れなずむ宇部の街をもう少し走って、次の目的地を目指す。
道中、宇部の市街地は思っていたより10倍くらい都会でびっくりした。
なんというか、事前情報だと「石炭で栄え、石炭とともに衰退したまち」みたいなイメージだったのだが、全然「衰退」イメージは全くない。
綺麗でにぎわいもある住みやすそうな地方都市という印象。
石炭業最盛の頃に16万人ほどだった人口は、閉山後逆に上昇して一時は18万人を超え、少子化時代を迎えた令和8年でもまだ15万人を維持しているそうだ。
この理由は、翌日詳しく知ることになる。
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目的地が見えてきた。
銀天街アーケード。
石炭採掘全盛期の頃のメインストリートで、この一角に「ユニクロ」の原型となるショップがあったそうだ。

ここで少し気が緩んでいた————
お恥ずかしい話だが、「一時停止違反」で青切符を切られてしまった。
アーケードとの交差点で一時停止の標識に直前まで気づかず、路面の「止まれ」の文字に気づいてあわててブレーキをかけたものの、停止線を大きく越えてしまった。
途端になるサイレン。
普段ならもっと手前で標識にちゃんと気付いて、止まれたはず。
早朝から長距離、長時間をほとんど休憩せずに走ってきたことによる疲労で、注意散漫になっていたんだと思う。
この件をきっかけに、この後の旅では少しでも疲労を感じたら休憩や仮眠を取るようになり、事故も違反もなく無事帰宅することができた。
あと数ヶ月でゴールド免許に切り替えだったのが少し惜しくもあるけど、事故を起こす前に気を引き締めることができてよかったと考えている。
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そんな青切符をもらった場所が、偶然にも本日の「目的地」だった。

この空き地。
古き良き昭和の匂いのするアーケード商店街の一角にある、この空き地こそが「ユニクロ」発祥の地————厳密にはその前身、小郡商事という紳士服店があった場所だそうだ。
この地域は、宇部に多数あった炭鉱の中でも中心的存在の「沖ノ山炭鉱」の門前町だったため、昭和中期までは大勢の炭鉱労働者や関係者、その家族たちでにぎわう繁華街だったらしい。
夕暮れ直後のこの時間などは、きっとものすごい活気だったことだろう。
もう少し色々散策したいけれど、さっきの「不注意」の件からすると今日はもうこれ以上動かない方が良いと判断する。
この日の移動はここまでにし、明日またあらためて訪れることにした。
3日目 炭鉱町のユニクロ
翌朝、夜明けと共に行動を開始する。

早朝の瀬戸内海沿岸をバイクで走りながら、周辺の気になったところを見て回る。
宇部市のとなりまち、山陽小野田市というところにも炭鉱跡があるそうなので向かってみると、道すがら面白そうなスポットを見つけた。
「この、『くぐり岩』ってなんだろう?」


「本山岬公園 くぐり岩」
「気付かないうちに潮が満ちて帰ってくることができなくなることがあります」
そんな注意書きが気になって立ち寄ってみると……



↑ 360天球写真 ドラッグやスワイプで全方向が見られます
遠くに見える、コロッセオの一部みたいなあの穴が「くぐり岩(の一部)」らしい。
ネットで見たところまるで小さなお城のような、かなり面白いかたちの奇岩のようで、干潮だと名前通り歩いて「くぐれる」そうだが、今は海水でたっぷり満ち満ちていて近づくことさえできない。

↑ 360天球写真 ドラッグやスワイプで全方向が見られます
近づいてみたが、思っていた以上に潮位が高く波も荒い。下手したら沖へさらわれてしまいそうだ。
残念だけど今回は引き換えそう。

…………?
海岸に何か違和感を感じて、なんとなく写真を撮る。
なんだか普段見慣れた海岸とはどこか違う気がする。

うーん。
何が違うんだろう。
考えてもここでは思い至らず。
あとから振り返ってみればヒントはすでにあり、とてもシンプルな理由だったのだが、このときは早朝寝起きでまだ頭がぼんやりしていたようだ。
数時間後、石炭博物館で答えを知ることになる。
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くぐり岩には行けなかったものの、展望台を見つけたので登ってみることにした。

展望台に登ったものの、くぐり岩は崖の死角になっていて見えなかった。
けれど、景色は良い。
ここから見える湾に、昭和の頃まではたくさんの炭鉱があった。
きっと、この湾の海底自体に、大きな石炭鉱脈があるのだろう。


「うーーーん…………」
昨日一昨日の疲れがまだ溜まっているらしく、強烈に眠い。
あまりに頭がぼんやりするので、展望所にあるベンチに腰掛けてちょっと休憩していくことにした。
目を閉じていると——いつの間にか居眠りしていたようで、気づいたら一時間ほど経過していた。
おかげで頭がすっきりし、気分も爽快だ。
昨日みたいに不注意で問題が起きる前に、こうやってこまめに休みながら旅していこうとあらためて思った。
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地図アプリをみるとくぐり岩のある本山岬から、バイクで数分のところにも炭鉱の遺跡があるらしいので探しまわった。
……が、いくら探してもそれらしいものが見つからない。
周囲はごく普通の住宅街が続いているばかり。

バイクを停めて、歩いて周囲を見て回る。
あ、もしかしてこれがそうかな?
ブランコや砂場、トイレなどが設置された公園の片隅に、金網で囲われたコンクリートの構造物を見つけた。



やはり、これが炭鉱の跡のようだ。
「本山炭鉱」といったらしい。
炭鉱斜坑坑口という言葉通り、これは入り口で、ここから斜め下へ向かうトンネルが沖の方向へ伸びていたようだ。
つまりこれは、海底トンネルへの入り口なのだ。
歩いて、この遺跡の後ろへと回ってみる。
住宅街の向こうに沖が見えた。

陸から400メートルのところに、干潮時にあらわれる岩礁があって、江戸時代まではそこから石炭を採掘していた、と看板に書かれている。
あのあたりだろうか。

その後明治時代以降は、さっきの入り口から掘った海底炭鉱での採掘に移り変わっていった。
看板によれば、トンネルは沖合2キロのところまで伸び、深さは最新部で海面下200メートル、総延長19キロにも及んだらしい。
この炭鉱でも、百名近い作業者が亡くなった事故の記録があるそうだ。

この本山炭鉱は昭和38年に閉山したそうなので、すでに60年以上が経過していることになる。
住民の方でも、往時の風景を知らない人の方が多いかもしれない。
周辺はごくふつうの住宅街。
その只中にあってこの巨大なコンクリートの構造物は目立つ————
と思ったが、すぐに思い直した。
一度気づいたから意識してしまうだけで、ついさっきまで自分はこれに気づかず、すぐそばを何度も素通りしていたではないか。
ひっそりと目立たず日常の中に静かに馴染んでいるのだ。
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途中コンビニで軽く朝食を済ませてから再び宇部市内へ戻った。
例の「ユニクロ発祥の地」を再訪する。


昨夜の青切符の際、おまわりさんから商店街の中にパーキングがあると聞いていたがすぐに見つかった。
30分50円という金額設定に仰天する。

後からわかったことだが、このパーキングは四輪車専用でバイクには対応していなかった。
出口の機械に何度駐車券を入れても「この駐車券は使用できません」と表示されたため、焦って管理者に問い合わせた際に判明した。ご迷惑おかけしました…。



奥に見える化学工場群が、宇部の象徴的な企業「宇部ケミカル工業UBE」。
「UBE」は2022年に改称した名前で、その前は「宇部興産」。
さらに以前は「沖ノ山炭鉱組合」と言った。
沖ノ山炭鉱は宇部炭鉱の中心的な存在だ。
石炭は石油と同じく、単なる燃料としてだけではなく化学加工品としても幅広い用途(薬品やナイロン、プラスチックなど)を持っている。
元々操業当時から、「石炭を掘り尽くした後のこと」を考えて事業の多角化に臨んでいたそうだが、炭鉱を閉山するにあたり、それまでの炭鉱業で培った経験すべてをリセットするのではなく、石炭との関わりの中で得た「化学」を中心に据え直して再出発した姿がこの工場群なのだ。
これはかつての炭鉱が「ありよう」を変えて、街の象徴として今もなお生き続けている姿と言えるだろう。
(このあたりの流れも、この後訪れる石炭記念館で得た知識だ)

















人より猫の方が多い…………とまではいかないものの、銀天街周辺では野良猫?(あるいは地域猫かもしれない)を何匹も見かけた。


再び元の場所へ戻ってきた。

「ユニクロ発祥の地」とは言うけれど、この場所に「ユニクロ」が建っていたことは一度もない。
建っていたのは「OS」と言う男性向けカジュアルファッション店だ。
1949年、宇部炭鉱街の一角であるこの場所に柳井等氏(ユニクロ・ファーストリテイリング社の代表取締役社長の父親)が創業した紳士服店「メンズショップ小郡商事」が、公式にはユニクロの発祥とされている。
厳密にはその三年前に柳井等氏の兄である柳井政雄氏が「小郡商事」を創業しているのでそこが発祥とも言えるのだが、こちらは衣服ではなく金物や日用雑貨を扱う店だったことや、政雄氏が破天荒な人物だった経緯などから、黒歴史的扱いになっているようだ。
この場所で始まった「メンズショップOS」は若者向けのファストファッションショップとして、山口県を中心に近隣地域に店舗を展開していった。
そして1984年、新たな業態として「倉庫型のセルフサービス洋服店『ユニーク・クロージング・ウエアハウス』」略してユニクロ一号店を広島に開店。
これが望外の成功となり(とはいえ二号店では大きな失敗を重ねたりしながらも)1992年、会社名そのものをメンズショップ小郡商事からファーストリテイリングへ変え、現在に至っている。
現在のユニクロはSPA(服の企画・製造・販売まですべて自社で行う業態)だが、当初のユニクロは仕入れ販売だった。
アパレル問屋や企業から既製品の服を仕入れて、お店に置く。
これは現在の「しまむら」に近い業態だ。
風雨来記4で岐阜駅周辺を歩くとアパレル問屋街を見ることができるが、メイドイン岐阜の服が、ユニクロに並んでいた時期が確かにあったのだ。

ところで、昭和生まれの人にとってはユニクロといえば「とにかく安い、品質も悪くない。けどちょっと垢抜けない」という印象があったんじゃないだろうか。
ファミリー向けで、デザインが流行から外れているので若者が積極的に着るブランドではない、着ているのを知られたらちょっと恥ずかしい……そんなイメージ。
それがいつからか——たぶんSNSや動画サイトで、インフルエンサーがユニクロ商品をおしゃれに着こなして紹介するようになってからだろう、カジュアルに日常で使える標準着・あるいはプチプラの高見えオシャレ着として、イメージが定着した感じがある。



そんなユニクロの原点とも言える洋服屋さんが、かつてこの場所にあったのだ。
「メンズショップOS」をネットを検索すると、この場所で買い物した人たちの語る思い出も散見され、ちょっぴりタイムスリップしたような気分が味わえた。
↑ 360天球写真 ドラッグやスワイプで全方向が見られます
ときわ公園——石炭博物館
次の行き先はどうしようか考える。
銀天街をゆっくり探索したけれど、時刻はまだ午前10時前。
このまま本州の西の果てへ突っ走るか、ここからバイクで30分ほどの「ときわ公園」内にあるという「石炭記念館」を訪ねて、宇部の歴史に触れてみるか。
すでに書いた通り、「石炭記念館」へと向かうことにした。
個別の炭鉱は数カ所訪れたものの、「炭鉱の町」としての記録をある程度俯瞰的に眺めてみたいと思ったからだ。
ネットの口コミによると、「無料なのがもったいないくらい良い資料館」なのだそうだ。
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というわけで、ときわ公園へやってきた。
何も調べずに来たのだが、やたらでかい池?湖のほとりに広がる「超でっかい公園」だった。
例の「石炭記念館」は、このときわ公園のごく一部に過ぎないようだ。
あ、これ、ちょっとした寄り道じゃすまないな、と訪れた瞬間に確信する。
駐車場は車でかなり埋まっていたけれど、バイクで訪れる人はほとんどいないようで、この時は自分一人だった。
警備員の人にここへどうぞと誘導された場所にバイクを停めて、早速探索を開始した。

遠くに見える紅白カラーの塔が石炭記念館らしい。
結構遠い。
歩いて行くだけで5分以上かかりそうだな……。
手前にはどこかで見たような巨大なヤリ。

エヴァやシン・ゴジラで有名な庵野秀明監督がこの宇部市出身で、その縁から設置されたオブジェだそうだ。
案内板の説明によれば、材料は宇部市で出た鉄スクラップ。
これを「宇部を代表する企業であるUBEグループの一社・宇部スチールの職人の手による最高の技術の粋を集めて製造されたもの」だという。
この槍を目当てに訪れる人も多いのだとか。
そう言えば駐車場の誘導員さんも「槍はあっちです」と案内してくれていたっけ。


石炭記念館の前までやってきた。
一大のSLが鎮座している。
SLやまぐち号と似ているかも?
あっちは車体の番号が「D51200」だった。

頭の番号が同じ「D51」だから、同系統の車輌なのかな。
ネット検索してみると、国鉄D51形蒸気機関車・通称デゴイチという形式のようだ。



そうか。
ここに来るまで頭の中であまり結びついていなかったけど、「石炭で動いて」「石炭を運んだ」SLは、炭鉱と共に石炭社会を象徴するような存在だったんだな。

石炭記念館に到着する。
施設前には、かつて炭鉱で使われていた道具や機械がいくつも展示されていた。


館内に入る。
冷房が心地よい。
内部の展示については写真禁止だったので、メモ帳を片手に見て回る。
石炭のことを「化石燃料」と言ったりするが、あれは文字通りの意味で、生物の化石が成分変化したものが石炭なのだそうだ。
ジュラ紀とか白亜紀とかの古代をあらわす時代区分の中に「石炭紀」というそのものズバリな名前がある。文字通り、世界の石炭の半分はこの時代がルーツ。
この時期にはまだ「キノコ」の仲間がいなかったので、植物の残骸が分解されないまま沈殿・堆積して、大量の石炭になった。
ただし、それ以外の時代にも石炭は生成されていて、日本の石炭はほぼすべて「石炭紀以外に生じた石炭」なのだという。
ポイントは「腐敗・分解より前に地中深くへ沈殿・圧縮されること」。
条件がそろえば、地中の熱と圧力によって数千万年を経て炭化し、「石炭」となる。
日本列島は火山が多いことから分かる通り地熱も高く、世界的に見ても特殊で、比較的新しい時代由来の石炭が産出する地域なのだそうだ。
そのため、石炭と同時に「石炭になっていない化石そのもの」が出てくることも珍しくない。
館内には石炭と共に、たくさんの化石も並んでいた。
宇部サイと名付けられたサイの化石。
アンモナイト。
ゾウの歯の化石。
ウマの化石。
ワニの化石。
珪化木。(木の化石)
大正から昭和の頃の「坑道」を再現した屋内トンネルもあって、これがまた素晴らしい展示だ。
昨日からの、炭鉱跡では肌で感じることのできなかった「坑内」の様子を体で感じ取ることができて、訪れた甲斐があった。
写真撮影禁止なので、公式HPの画像を引用しておく。

施設の方の話では、元々この地域の石炭は「製塩」のために使われ始めたそうだ。
産業革命より少し前、瀬戸内海の海水から塩を作るため、それまでの木材に変わって注目されたのが「燃える石」、石炭だったという。
現在でも、瀬戸内海にある伯方島の特産物「伯方の塩」は有名だ。
昭和中期に法律で日本国内においてそれまでのように塩田製塩ができなくなったことをきっかけに、現在はメキシコやオーストラリア産の塩を原料として製塩している……というのは割と有名な話だが、この伯方の塩の隣の塩田跡では「伯方化学」という会社も少し前に誕生していた。
こちらは、製塩に使っていた石炭を元にした活性炭を製造する会社で、炭鉱から化学工場へシフトした宇部の流れと通じるものがあるだろう。
話の流れで今朝訪れた「くぐり岩」のことを話すと、施設員さんが「昔あそこでバーベキューしたときに、浜辺の黒い石をもしやと思って入れてみたらよく燃えた」というエピソードを聞かせてくれた。
「今でもたくさんの石炭のかけらが、打ち上がっている」のだと。
石炭は他の石や砂に比べて軽いので、浜に打ち上がりやすいようだ。
それで「ああ!」と合点がいった。

あの浜で感じた違和感は、それか!
足下が「やけに黒かった」。
今思うと、アスファルトのカケラみたいな、あるいはキャンプの跡の炭カスみたいな、黒い石がやたらと目についた気がする。
あれ、石炭だったのか……!
ていうかそんなに普通に打ち上がっているもんなの、石炭って?!
石炭なんて限られたところにしかない、日常とはほど遠い鉱物だと思っていたけれど……、場所によっては普通に浜辺に転がっているなんて。
常識がひとつ吹き飛んだ気がしてすごく愉快だ。
次あの浜を訪れたら、あらためて確認してみよう。
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先ほどから見えていた、石炭記念館の上に伸びる紅白のタワー。
これもまた、石炭掘削施設の一部を移築したものらしい。
現在は展望台になっているとのことなので、エレベーターで昇ってみた。


遠くをみやれば景色が霞む果てまで立ち並ぶ住宅街。
やはり大きく、活気のある街だ。

真下には緑と水の豊かな公園。
江戸時代に宇部を領地として与えられたお殿様が、不毛の土地を開拓して生まれた水源がこのときわ公園のはじまりだそうだ。
一方、海辺には化学工場のプラントがたくさん立ち並んでいる。
「石炭採掘の街」から「化学生産の街」へと転換した証。

ところで、さっきから気になっているものがある。
視界のはるか下、小さな森と池があるあたりの木の上で、金色の何かがぷらぷら揺れているのだ。
なんだろう、あれ。

???
あれって、もしかして動物園だろうか?
すると、さっきのは…………
次回につづく

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