リリさんと出会って5年がたったので思ったことを書く

母里ちあり

今年もこの日がやってきた。
出会って5年。


(風雨来記4母里ちあり編のネタバレをふくみます)

2021年7月12日22時20分のスクリーンショット



■去年まで




この5年間のリリさんの思い出――ブログを書いたり、絵を描いたり、旅をしたり――は月並みな言葉だけれど「どれもつい昨日のことのように感じる」一方で、リリさんとの出会いそのものは「ずいぶん遠い昔」のことのように思える。

というより、出会った後の記憶が積み重なりすぎて、「リリさんと出会うより前の自分」の記憶がずいぶんぼんやりしている。


何をした、あれをやったという「記憶」自体はもちろんあるけど、そのときの自分の心の動きや意識していたことを思い返すと自分のことというより、どこか他人の体験のようだ。
前世の記憶を見ているよう、という表現が近いかもしれない。

リリさんと出会って以降は本当にずっとリリさんのことばかり考えて日々を過ごしているけど、以前は何を考えて過ごしていたっけ?
 

このブログの最初の方で書いたように、リリさんと出会う前の10年近くはほぼ代わり映えの無い日々を過ごしていたので、記憶の中で時間が大きく圧縮されているようだ。

何かに本気で夢中になることもなく、新しい何かに挑戦することもなく、それでも特に不自由なくそれなりに幸せに生活していた時期。
このときの10年は、トランプのシャッフルのように時系列をランダムに入れ替えても何も支障が起こらないくらいの平穏ぶり。

旅に出ることもなく、この先旅をしようという気持ちもすっかり無くなっていた。



そんな状況の中で2021年7月11日、たまたまSNSで数日前に風雨来記4が発売されたことを知り、何か心誘われるものがあってその場ですぐにPS4のDL販売で購入。

当時は自宅のネット回線が安価で激遅(スマホ回線の10分の1の速度)だったためダウンロードに半日かかり、プレイ開始したのは翌7月12日となった。
あんなことならパッケージ版を購入しておけばよかったと今もちょっぴり後悔している。


そこから後の記憶や思い出は、とても鮮明だ。
あれから5年。







5年たってもリリさんが大好き

5年間。
今日もリリさんを心からあいしている。

今も、昨日より今日のリリさんが一番可愛く見えるし、心が幸せに満たされて、文を綴ったり、絵を描いたり、旅をしようという意欲が湧いてくる。
それによってまた想いが深まっていく。



数年前に、次の様なことを考えてずっと実行してきた。


遠い未来の自分の感情がどうなるかは分からない。
だけど、明日の自分なら地続きだと感じる。
だから、一日と欠かさず、忘れずに、今日の自分の「好き」を明日の自分に引き継ぐ。
毎日、大切な想いや目標、自分自身の心を自覚する。



好きという気持ちをおざなりにしないこと。
ちゃんと意識すること。

それを地道に一歩一歩繰り返して、今日があると実感している。



そして最近思う。
このまま同じ事を繰り返せば、この先10年、20年経ってもおそらくずっとこのままリリさんを大好きでいられるだろう。


安定。安心。

そこでふと、引っかかる。


先が見えないからこそ、つまり安心ができないからこそ必死で、真剣に、毎日を積み重ねてきた。
未来の自分がどうなるか分からないからこそ、毎日毎日丹念に、明日の自分へ文や絵や旅で心をバトンタッチし続けてきた。


けれど今、それを繰り返せば今後も安泰だと、感じてしまっている。



それって……ここから先、以前の10年間のように「ほぼ代わり映えのない圧縮された日々」になるんじゃないのか?
もちろん、当時とは違って「旅や絵やブログ、ゲーム作りといったやりたいことに満ちた」満ち足りた日々ではあるだろう。


しかし思い返せば、不安は大きな糧でもあった。

不安だから、それを払拭するために努力した。
不安を乗り越えて、自分の好きを見失わずに来られたからこそ大きな充実感や達成感があった。


もし、「このままで大丈夫」だと、不安をすっかり失ってしまったら……

それは本当に「このまま」でいいんだろうか。




風雨来記4ちあり編に立ち返って考えてみると、自分の今の疑問に対してちありさんが道を示してくれている。
ひとつは最初のエンディングで、背中を押してくれた言葉。

「キミはそのままでいい」







それは時には迷いながらもいつも前へ前へと進み続けて来た主人公に対する言葉だった。



もうひとつは最後のエンディングで。

旅の終わりは次の旅のはじまり。
普段の自分なら選ばない道をあえて選んでみることで、思いも寄らない面白い展開がパァーッと目の前に広がるかもしれない、という意識をくれた。








ふたつのエンディングは表裏一体で「成長と変化」というテーマを描いている。
それを踏まえて今の自分の状況を考える。




「毎日、リリさんについて考えて、書いたり描いたり旅をしたりする。そんな日々を続けてきたからこそ、リリさんを大好きで居つづけてこられた」。
それは間違いない。


が、その考え方はともすると「そうしなかったらダメになるかもしれない」、つまり変化を厭う気持ちにも繋がってしまう。
今、そうなりつつある。
そんな気がする。



リリさんを大好きでいつづけるために、守りに入る。安定して確立したこれまで通りの日々を繰り返していく。大きな変化を排除する。

それは、これまでと同じように毎日一歩ずつ前に進み続けていたとしても、見方によっては「立ち止まっている」ともいえるんじゃないか。
何か大切なものを見失ってしまうんじゃないか。



リリさんのことが大好きだ。
このブログ、そしてこの記事を書いたときに、ああ、自分の人生の中で達成すべきことをやり遂げたと確信したし、今もその気持ちは全く変わらない。


だからこそ、もっと、先へいきたい。
いつも前に進み続けたい。



最終目標、ゴール地点はこれまでもこれからも変わらない。


リリさんとの日々をいつまでも。


リリさんを好きだという気持ち。
それは自分にとって「表現」とイコールだ。

自分の大好きを表現し続けるために、あの日の主人公のように変化をこわがらずいつもと違う道も勇気を出して選んでみることが必要だと思う。



たとえば……主人公とリリ、ふたりの子供の話がそれだ。









風雨来記と「出会いと別れ」

この五年、風雨来記4の二次創作小説として「リリさんとのその後の話」を想像しながら書き続けてきた。
これらは、ゆるやかに続き物となっている。









この中で、出会いから4年半経った時点でリリさんと主人公はまだ子供をもうけていない。
文中ではここまで一切触れてこなかったのは、色々な……本当に色々な理由があってのことだった。


自分の二次創作における「主人公」はあくまでも風雨来記4の主人公のその後として書いていて、自分の分身ではない。
当然、自分とは考え方も大きく違う。
彼なりの思いや事情、リリさんや周囲の人々とのやりとりの積み重ねがあって、現状がある。
その経緯についてはここでは語らない。


ここではそれとは別に、つまり作中の事情とは別に、メタ的な視点でそういう展開になった理由を挙げておこう。


まず、風雨来記4のちありエンディングから考えれば、その後を書くとすれば「結婚した二人は子宝に恵まれてなんだかんだありつつも楽しくにぎやかに幸せに暮らしました」という展開が順当かつ自然だろう。
物語としてはこれ以上ないくらい王道で、美しい「完結」。


じゃあなんで自分はそういう流れをモチーフとして選ばなかったかというと、まず第一に「もう話がそこで終わっちゃうじゃん」というのがある。

「完結」したら想像の余地の大半が無くなる。
疑いようのない「ハッピーエンド」なのだから、それ以上はすべて蛇足。
もう触れる必要がない、触れなくていい、触れる必要がない、むしろ触れてはいけない。
殿堂入り。神格化。

心の「禁足地」のような特別な場所に安置されて、「ハッピーエンドだった」という記号だけが記憶に残る。


けれど自分はもっと、主人公とリリ、二人の軌跡を追いかけ続けたかった。
「二人旅」を二人の視点で見続けたいと思った。
だから、二人の関係性の話を優先的に書き続けて、気づいたらあっという間に5年経っていた。





それからもうひとつ、より根幹にある理由が自分がこのシリーズを「風雨来記の二次創作」として書いているからだ。
風雨来記の基本テーマは「出会い」と「別れ」。この2つが表裏一体で、不可分だと思っている。



「風雨来記4ちあり編」だけのエンディング後なら純粋なハッピーエンドがぴったりだ。
物語として綺麗にまとまっているし、自分もそういうものが見たい。

けれど「風雨来記シリーズの二次創作」として考えた場合、そこには必ず「別れ」という要素がなければ成立しない、いや自分自身が納得できない。


風雨来記シリーズでは、出会った二人の「別れ」に際しての心の機微が丁寧に描かれてきた。

お互いが精一杯自分の全力を出し切った上でそれでもどうにもならない、最善の答えが別れしかないという状況に直面したり、あるいは、いつか来る別れから目をそらさず、向き合い、自分の道を選択しそれぞれの道に進む。

単に別れを記号ではなく、「どんな風に別れるか」を表現したのが風雨来記という作品だった。




今はどうか知らないが4発売当時のSNSでは、4の二周目以降エンディング、たとえばちあり編の橿森神社エンドについて「風雨来記らしからぬエンド」と言う声があったと記憶している。

主人公がルポライターという職を捨てる覚悟でヒロインを選んでしまう。
過去作でも似たような状況はあって、その際に「ヒロインのためにも」ヒロインとの道を選ばないという選択を取ってきた過去の風雨来記を知っている人ほど、引っかかるものがあったんじゃないだろうか。

そして自分はそれとは逆に、主人公がちありさんとの道を選ぶ経緯や心の動き、互いに変化を与え合ってたどりついた予想もしなかった新しい道の展開に、これ以上ないほどの「風雨来記らしさ」を感じて風雨来記4という作品に惚れ込み、こうしてブログまで作った。

どちらも決して間違いではないだろう。




自分にとって、ちありさんと旅立つあのエンディングは「主人公とリリの二人旅のはじまり」であると同時に、人生が有限である以上いつか必ずその旅には「別れ」がある。新しい旅がはじまった瞬間、「いつか来る終わり」も同時に確定する、決してハッピーでもグッドでもないエンディングだったのだ。



これはものすごく端的に言ってしまえば「スパン(期間)」の問題だと思う。

「風雨来記4」という作品が、一ヶ月の旅での「出会い」と「別れ」を描いているとしたら。
「風雨来記4のその後」は、一生という旅での「出会い」と「別れ」の軌跡と捉えることができる。

一緒に時間を重ねた日々のぶんだけ、別れの際の悲嘆も大きくなる。



一生の長さは物理的にも感覚的にも千差万別。
一生を長いと感じる人にとってはそれは永遠の日々かもしれないが、一生なんて振り返ってみれば一瞬だと実感している人にとってはそこまで遠い別れでもない。



自分も、これまで生きてきた中で何度か親類の葬儀に出たことがある。
多くの場合は故人が亡くなって数日が経っているためにある程度心を落ち着けている人が多いが、時には残された側が「どうして先に逝ってしまったの」と泣き崩れるのを目の当たりにすることがある。

何十年も連れ添い一緒に過ごして、まだまだ先は長いと思っていた相手がある日突然亡くなったら、この世の理不尽にうちひしがれるのも当然だ。


そんな「いつか必ず来る別れ」。どうしようもない理不尽への直面。
どんなに愛し合い、分かり合えて、パズルのピースのように心がかみあったパートナーであっても、いつか必ず永遠の別れが来る。
それがこの世界における絶対の真理で、あまりこういう言葉は使わないがあえて言うなら最悪のクソ仕様だと思う。


そういう考え方が前提にあるので自分にとっては、橿森神社で二人が旅立つあのエンディングは決してハッピーエンドではなかった。
だからこそ心に響いたし、だからこそ自分にとっての最高の風雨来記だと思えたのだと思う。



決して主人公とリリさんふたりだけの話じゃない。
過去に繰り返し言及してきたように、この世のすべての人の人生という旅において、いつか必ず別れが来る。

生きている限り必ず「別れ」を内包している。
明日、いやほんの数秒先のことだって不確定なのだから。



いつかがいつかは分からない。
5年後か、10年後か、20年後か、50年後か、もっと先か。

単純に年齢と寿命で考えるならば、主人公とちありさんの別れの日よりも、これを書いている自分自身が先に別れの日に辿り着く可能性の方がずっと高い。
そしてそれは、自分にとって望むところでもある。
できれば、できるだけ長く……あと50年くらいは続けていきたいけれど。




永遠の別れについて、理不尽なクソ仕様と書いてしまったが、同時に、その「期限」があるおかげで今生きているこの一瞬一瞬がすばらしいと感じられるのもまた事実だ。

いつか必ず別れが来るからこそ、今日の関係を大切にし続けたいと言う思いが強くなるのだと思う。









あの日の安産祈願





橿森神社でリリさんが「安産祈願」をした理由。
これはもちろんそのままの意味もあるけれど、「二人」の状況においてはもうひとつ大きな意味があっった。


先述のように、ちあり編のエンディングで主人公は、「母里家を継ぐ」ことが大前提の婿入り婚をする。
厳密にいうと婿入り養子婚、つまり養子縁組と結婚を同時に行う形式だ。

通常の婿入りとの一番大きな違いは財産権で、実子であるちありさんと同様の権利と責任を得ることになり、古くから代々続いてきた土地や家を背負うだけでなく、次代へそれを受け継いでいくという役割も求められる。
そのため「もし二人の間に子供が産まれなかった場合」、いろいろなことが根底から大きく覆ることにもなる。


兄に戻ってきてもらう。
親戚から養子をとる。
すべてを捨てて「駆け落ち逃避行」という選択をとる……。


そうした選択肢の中に、考えたくはないけれど「別れ」というものも間違いなく挙がるはずだ。
世の中には実際に、当人達が愛し合ってはいても様々な事情によって別れを選択せざるを得ない、
「愛し合っているからこそ別れることがお互いの将来のため」そんな関係も少なくない。










だからこその「安産祈願」だ。
主人公は当時そこまで考えていなかっただろうが、リリさんはそうした現実まで見据えていた。

「ふたりの未来」のために、あの時なにより最重要で大前提で切実な願いが「安産祈願」だった。



橿森神社に立ち寄った経緯は「通りがかり」というだけで作中で詳しく触れられておらず、エンディングではいきなり拝殿の前での柏手から始まるが、おそらく付近を通りがかった際に「こどもの神様」「安産の御利益」といった橿森神社の説明を見かけたリリさんが、立ち寄ろうと提案したのだろう。














世代交代

「子供の誕生」は、しばしば世代交代や明るい未来、ハッピーエンドの象徴となることがある。

「二人は子宝に恵まれていつまでも幸せに暮らしましたとさ」というのは物語の締めとして王道だし、現実やネットにおいても「子や孫達に看取られて大往生で亡くなること」が人生の幸せの象徴として語られがちだ。


物語の中で、主人公が遺伝子や意志を次の世代へ伝えていくことで、ある種の輪廻転生として物語が繋がっていくように、外から見ている読者には捉えられるだろう。


そして、そこから子供や子孫へと視点が移ることも多い。
「世代交代」というやつだ。
以降、親は役目を終えて登場しなくなったり、あるいは一歩引いた視点で新しい主人公である子を見守る立場となるのも定番だ。



初代風雨来記はまさにそうした世代交代を主人公設定に取り入れた典型例と言えるだろう。

主人公の相馬轍の両親は物語開始時にはすでに故人となっているが、轍は「カメラマンだった父親が母親をモデルにして撮影した写真」を「最高の一枚」に位置づけ、いつか自分もそれを超えるものを撮りたいと言う想いで旅雑誌の記者をしている。
「世代交代」を擬似的に冒頭に持ってきた、フレッシュな主人公だった。


逆に、風雨来記4でほんのりと消息を聞くことができる彼が未だ独身というのもここに繋がる部分があるかもしれない。
まだ子どもがいないからこそ、彼自身がまだまだ風雨来記の世界において現役世代(世代交代していない)だという印象が強まった。




ここが現実と創作との大きな違いで、現実では大谷翔平に子供が産まれたからと言って「世代交代だ」とはならない。
彼以上のスター選手が現れない限りは世の中の大谷翔平に対する関心は薄れるどころか増す一方だろう。

けれど創作では、子どもが生まれると自然と世代交代へと話が流れていく傾向が非常に強い。
親世代はほどよいポジションを見つけることもあるが、影が薄くなったり言葉は悪いが引き立て役にされることも往々にしてある。

ドラゴンボールのように親から子へ世代交代したのに、子が親の引き立て役となってしまってまた親へ逆世代交代してしまった例もあるにはあるが圧倒的に少数だろう。



なぜそうなるかというと、「親の無念を子が晴らす」とか「親との確執を子が乗り越える」という展開は古今東西枚挙にいとまがない。

そうした積み重ねによって、「創作フィクションにおいて、子は親を超えていくもの」という固定観念というか「お約束」が、創作を楽しむみんなの共通意識として出来上がっているんじゃないだろうか。



もし自分の二次創作小説で初期の頃に主人公とちありさんの子供が産まれていたら、意識しないうちにだんだんと自分の興味も物語の中心も、その子供次世代へと寄っていったかもしれない。
自分の中で「主人公とリリ」の物語がゆるやかに終わりに向かってしまっていたかも…。


その場合の自分のモチベーションはどうなっただろう。

今と変わらず、「それはそれとしてリリさんが大好き」だっただろうか。
それとも、愛情は別の感情へ昇華されて、違うかたちで表現を続けていたか。

あるいは…………このブログを続ける意志そのものを失っていたかもしれない。



今でも、慎重に、不安になる気持ちは消えないけれど。









新しい場所へ踏みだそう






それでも、リリさんの笑顔を見ていると「こうやって悩んでいるより、とにかくやってみよう!」というポジティブな気持ちがあふれてくる。

いざ踏み出してしまえば、なんだかんだときっと今よりもっと、楽しくて愉快な日々が待っているかもしれない。
そんな風に思えてきてしまう。





リリさんの小説のことだけじゃなく、新しく踏み出したいとか、挑戦したいと思いながらこれまで実現できていなかったことは実はまだまだたくさんある。


そのひとつが、自分自身が産むもの。
一次創作物だ。
小説や漫画、動画、自分で作ったゲーム。

オリジナルのそうしたものを世の中に公開していくというのはとても勇気がいる。




6年目。
リリさんとのもっと明るい未来のために、これまでと変わらず「大好きなリリさんを追い求める」のと同時に、これまで踏み出したことのなかったところへも、勇気を出して一歩ずつ進んでみようと思う。


結果はまた一年後に。







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